ニューヨーク滞在記⑥トルコ人たちとピザ、韓国語会話

Aug/28/2008 THU 快晴

睡眠21:00→6:00

6:00にセットした目覚ましが鳴る前に、自然に目覚めて朝風呂に入る。昨日は疲れていたのだろう。今日はもう、ぐっすりだった。昨日は軽くしかシャワーを浴びていなかったので、今朝はしっかりと髪を洗いに、シャワー室へとそろそろと抜け出す。相方は昨日、知らないうちに帰ってきてたみたいで、すやすやと眠っている。昨日は早く寝たおかげで、今日は余裕を持った朝となった。

シャワー室に入ったときに、トイレから香る今までアンモニアだと思っていた臭いは、もしかしたら芳香剤の香りなのではないかということに気がついた。ドライヤーを終えて、ベッドに横たわりながら、余裕を持って宿題に取りかかる。内容は簡単な文法事項なんかの選択問題で、10分ほどで終わった。

起き出してきた相方が、「あ、そう言えば」と、昨日カードキーが使えなくなったので新しくしたと切り出してきた。昨日、俺が新しく作り変えたからなんだろうな。相方と俺はそれぞれ部屋のカードキーを1枚ずつ持っている。どちらかが使えなくなったときに一方を更新すると、他方のカードキーが使えなくなるって話は、以前バリ島に滞在したときにもそうだった。試しに俺のカードを使ってみると、鍵は開かなくなっていた。やっぱりどっちかが更新すると使えなくなる仕組みだったんだ。2枚同時に更新しなくてはならないのだ。

またしても1ドル札を枕元に置いて、今日は早めに部屋を出る。ホテルのフロントでは2人で並んで、2枚のカードを一緒に更新してもらった。これで両方とも使えるようになったはず。

今日は充分に睡眠をとったにもかかわらず、電車に乗ると頭が働かず、考えが浮かばなくなってきてしまった。これは嫌なことに向かうときに感じる感覚だ。なんだかボーっとして、考えるのを止めてしまうのだ。悪いことを考えると日本が恋しくなり安定を求めてしまいそうだ。悪いことは考えちゃあいけない。今を過ごすこの一瞬、一瞬のすべてを大切にしなくちゃいけないんだ。

キャナルSt.駅に到着して、昨日とは別のスタンドに並んでみる。ここは初日に頼んだベーグル屋さんだった。こないだと同じおじさんに、こないだと同じエッグ&ビーフ ソーセージを注文した。料金は、2.75ドルだった。うそ、こないだは3ドルだったよね?何で0.25ドル安くなってるの?おじさんの気分??仕入れの価格がかわった?相手を見て値段を変えている?

相方とラウンジに行くと、コウとユウキがそこに座っていた。授業が始まるまでの少しの時間を、4人で会話をして過ごした。話題は、昨日は別行動をして再会できなかったことや、結局全員が自由の女神を見に南端に行ったとのことなどだった。相方とコウはCentury 21で店内をしっかり見てまわったようで、お気に入りの服が買えたと言っていた。

授業では昨日に引き続き、リアルのイントネーションで発音する訓練をした。それはここニューヨークの市内でも英語の日常会話を話したい俺にとっても、すごく意義のある大切な練習に感じた。授業ではまた、have to、must、 shouldについても学んだ。意味の強さがshould<have toであること、そして「have to」「has to」「had to」はそれぞれ「ハフトゥ」「ハストゥ」「ハットトゥ」と発音が濁らないことなどを教えてもらった。

毎回、授業では1時間目と2時間目の間に10分ほどの休憩が設けられている。その間に、1階の正面玄関に赴くと、そこでもまたコウとユウキに会った。1階の正面玄関には喫煙所があって、休み時間や昼休み前には待ち合わせなどのたまり場となっているようだ。相方は初日から仲良くなった例のカレンと2人っきりでいることが多く、授業中に隣に座ったり、休み時間や放課後を図書館で過ごすらしく、校内ではほとんど顔を見かけない。コウにドーナッツを半分もらって、それを頬張りながら、ユウキに「やっぱ俺らは英語を勉強しに来たわけだからさ、授業よりも放課後が大事だと思うんだよね。午後までに外国人に声をかけて、放課後に外に連れ出して英語を話そうぜ!」と誘ってみた。ユウキも同じ考えらしく、お互いに頑張ってみようって話になった。

2時間目の授業に戻った。モエは買い物に行くと言って2時間目は出席せずに、教室から出て行ってしまった。彼女はいつ話をしても買い物の話ばかりをしていた。おしゃれな今どきの女の子という感じかな。毎日、先生のジュリーは朝の雑談で「昨日は何したの?」と、そして帰りの雑談では「今日は何するの?」と聞くんだけれど、彼女の場合ここんとこずっと必ず「ショッピングした」だの「ショッピングする」だのと答えるほどに買い物が大好きのようだった。あるいは、観光をしつくすとあとはショッピングぐらいしかやることがないのかなぁ。

授業中のゲームでは、席を立って2人組になったりパートナーを見つけて与えられた質問をしあう時間が、授業の半分ぐらいを占めた。俺はなるべくそのときの雑談のなかで、「放課後はどうしてるの?」なんて話題を振るように心がけた。そうして一緒に行動できそうなパートナーを探していたんだけど、今日もクラスメイトを誘うことができなかった。

さっきの休み時間に、ユウキに教室の位置を教えてもらっていたので、放課した13:00に相方、ユウキ、そしてコウのいるクラスの教室を覗きに行った。

すると教室では相方とコウがおらず、ユウキだけが残っていて、授業のゲームで扱った同音異義語カードを集めながら、先生や外国人と雑談している状況だった。ユウキは彼らに俺を紹介してくれた。「彼も一緒にいい?」とはにかんで。ユウキはなんと同じクラスのトルコ人の男2人と、昼ごはんを食べる約束を取り付けていたのだった。ナイス!俺は彼らに挨拶をして、4人でそのトルコ人が行きつけの、学校の近くのピザ屋さんに行くことになったのだった。

ピザ屋さんに行くと、他にトルコ人の女の子が2人いて(一人は後のサリハ)、彼らとともに、ピザとダイエットコークを食べた。6ドルほどだったけれど、なかなかの大きさとボリュームだった。トルコ人同士はトルコ語で話し合うものの、たまに英語で俺らに話を振ったり質問してきたりしてくれた。

彼らの話では、トルコ語はフランス語に近く聞こえるらしいという。「フランス語っぽく聞こえるでしょ?」なんて言われたんだけど、そもそもフランス語が分からないからなんとも言えないんだなぁ。彼らとは大学での専攻やLSIのクラスについての話をした。向こうが日本語の「こんにちは」などを知ってくれていたのがものすごく嬉しかった。俺も外国の挨拶を覚えて、話してあげたいって心から思った。母国語を少しでも知ってくれていて、しかも話してくれる人がいるなんていったら、すごく嬉しいもんね。そこでお返しに、「俺もトルコ語を一つだけ知ってるよ」と、トルコ人の男たちに、出国前に高校の友人が教えてくれたトルコ語の卑猥な単語をこっそりと耳打ちした。大爆笑だった。もっとちゃんとした単語を覚えよう。

食事を終えて、彼らと店を出るときになって、ちょうどもう一人のトルコ人が現れた。彼もLSIの生徒で、これまでいたトルコ人たちの友人であった。彼は俺らの事情を聞いたらしく、自己紹介をすると「これから暇か」と尋ねてきたのだった。俺達はもちろん、「うん」ってなわけで彼と再び店内に戻ることにした。

彼の名はアティーと言った。すぐに彼の男友達が3人来て、しばらく一緒に話をした。専攻の話、大学の話、LSIのクラスの話、って、まぁだれと話しても大体は同じ話題なんだね。みんな先生や授業のレベルを気にしているようだった。彼らのなかに中国にいたトルコ人がいたので、彼に少しだけ中国語を話した。彼らは日本のことを知っていて、サッカーの稲本のことなどを話題にしてくれた。ヨーロッパではサッカーに詳しいと、国際的な会話ができるんだな。アティーはユウキのクラスメイトだったらしく、ユウキもリラックスして会話を楽しんでいるようだった。

後から加わったトルコ人4人は食事を終えると、それぞれ帰るということで、店を出て別れることになった。しかし、お店を出てすぐに、アティーは信号を渡ろうとしている現地のアメリカ人のお姉さん3人を見つけたようで、教科書を片手に振りかざして叫んでいた。「これから英語の勉強に、僕たちとお話しようよ~」と。

彼女たちに笑顔で振られた彼らは、やはり「家に帰る」ということだったで、本当のお別れをすることとなった。短い時間だったけれど、お話してくれてありがとう。ユウキもこの場を設けてくれて、ありがとう!

時刻は15:00をまわっていた。そこで、やることのなくなったユウキと俺は、目の前にある学校に戻って、ラウンジと図書室に行ってみることにした。ユウキは図書室に行って、パソコンのメールをチェックをすると言っていた。

ユウキは今日、ホームステイ先に洗濯の仕方を教えてもらう約束をしていて、17:00に帰ると伝えているらしく、あと一時間して16:00になったら帰るとのことだった。やはりホームステイ先のご飯は、朝夕問わずアメリカナイズされていて、脂っこくてボリュームがあって食べきれないそうだ。その点、ホテル生活は自分で選択や調節ができるのがありがたい。昨日みたいに、今日は食べないで早く寝ようと思ったら、早く帰って寝られるところも自由に思えた。

図書室から北の窓を見下ろしてみる。やはり12階だけあって、眺めが素晴らしい。俺のクラスの教室にも北側に大きな窓がひとつあって、同様に北側の景色が見下ろせる。窓が閉まっていては閉塞感があるものの、やはり高いところから世界を見下ろすとなると、世界がいつもと違った見え方をする。東に流れる川はハドソン川というようだ。北の通りから川の下のトンネルに沈んでいく車たちをじっと眺める。このトンネルはホーランドトンネルというらしい。

せっかくなので、ついでにラウンジにも行ってみて、東側にある南北に走るヴァリックSt.も眺めてみる。ここからは東西に走るキャナルSt.との交差点が望める。どちらも、いつでも交通量のある通りのようだ。今日も良い天気だ。ここんところずっといい天気が続いている。

ユウキに倣って図書館のパソコンを開いてみる。図書館のパソコンでは画面のどこにも日本語の表記は一言もなかった。キーボードの入力もすべてローマ字だ。

ウェブメールを開いてみると、先日、韓国人がクラスにいたことを理由に、ホテルから日本にいる彼女に韓国語を教えてもらおうと送ったメールの返信が届いていた。彼女は以前に彼女の大学の韓国人の友人から、いくつかの韓国語を教わっていたという。それらをメールから授業用のノートにメモしておいた。

「チョウン ブッケスンニダ(初めまして)」、「チョウン~インニダ(私は~です)」、「ギョロン ヘージュセヨ(結婚して下さい)」、「キヨンネヨ(可愛いですね、正確にはキヨォネオ)」、「ベニゴパッ(お腹が空きました、正確にはペゴパ)」

うん、クラスの韓国人を相手に、きっと役に立つさ。特に結婚を迫るときにね♪

図書室では近くに、ひとりで勉強している韓国人の女の子がいた。彼女は以前にもひとりでいるのを見かけたことがあった。取りあえず、帰りがけに少しだけ挨拶をして、韓国人であることがわかったので、さっそくメモした韓国語を彼女に試してみた。彼女には一通りの意味が通じて、一部は訂正をしてもらった。

彼女にお礼を言って、ひとまず図書室の前でユウキと駄弁っていた。2人でこの後どう過ごそうかと話していると、先ほどの韓国人が出てきた。これからどこに行くのかと尋ねてみると、彼女は特に用はないけれど、どうやら帰るらしかった。

そこで、英語の勉強に喋らないかと誘ってみた。すると、即座にOKがもらえた。さっきアティーが路上で声をかけていた状況にも内容にも近かったような気がしたけど、外国語の習得のためには、外国人と話す交流が大事なんだね。どこに行っても同じような誘い文句でみんな声をかけていたりして。

彼女は郵便局に家族への手紙を出しに行く予定があったらしく、取りあえず郵便局まで着いて行くことにした。しかし、彼女は郵便局の位置を把握してはいなかった。俺は、初日にガイダンスでもらっていた案内の地図に、郵便局も載っていたのを思い出したので、そこから探してあげることにした。こうして3人で、LSIの校舎をあとにしたのであった。

郵便局までの道のりのなかで、彼女とは歳やクラスや留学期間などについて簡単に会話した。放課後にいつもなにをしているのかと尋ねると、彼女は独りでとにかく街を歩くと言っていた。場所によって景色が違うのを楽しみ、とにかく歩くのだという。

3人はすぐ1ブロック離れた先の郵便局に入った。彼女が列に並ぶのをユウキと2人で待っていると、今日は現金がないからと言って彼女は手紙を出すのを諦めて戻ってきたのだった。俺達が貸してあげるよって言ったんだけど、申し訳ないからと、それもやんわり断られてしまった。

ユウキはホームステイ先の約束があったため、いったん洗濯をしに行って、また戻ってくることになった。それまでコーヒー屋さんにでも行って話をしておいてとのことだった。彼はこれからが楽しそうなのにもどかしいといった様子で、早く戻ってきてくれそうな印象だった。

ひとまずレッドラインにユウキを送るために、3人でLSIの方に戻っていった。なんとも、そのときに先ほどのトルコ人たちが、3人でつるんでいるのに、再び出くわしたのだった。アティー、さっきあれほど帰るって言っていたじゃないか。

彼らとふたたび簡単に挨拶をして、そのまま別の方向にすれ違った。やはりトルコ人にはアジア人の中で、韓国人の女性と日本人の女性の見分けがつかないようだった。俺は韓国人は微妙に目つきと頬の感じが違うと思うんだけどね。でもこれは、現地の人には分かっても、日本にいる俺らにとってヨーロッパ人をフランス人かイタリア人かで見分けられないのと同じような感覚なんだろうな。

1時間後に帰ると言い残して、ユウキはレッドラインを上って行った。俺とその韓国人はLSIのラウンジに戻ってしばらく話しながら彼を待つことにした。

彼女の名はゴウン(서고은、KO EUN SEO、SEOは漢字では徐という字らしい)と言った。外国人には発音が難しいらしく、呼び名は頭文字のk(ケイ)でもいいと言われたのだった。歳は21歳だけれども、日本やアメリカの年齢で言うと20歳の1歳年下だった。韓国の年齢ではお腹の中にいる期間を1年として数えるため、産まれた時点を日本のように0歳とカウントするのではなく、1歳とするらしい。

彼女は今年は韓国の大学を1年間休学して、ロンドンやスコットランド、そしてニューヨークへと、英語を学びながら旅していると言った。ニューヨークの次には直接ドミニカ共和国に友人に会いに行って、それが今年最後の旅になるそうだ。親には留学を目的にお金を払ってもらっているけれども、実際は授業よりも、滞在した先々を歩いてまわるのが好きなんだそうだ。今年は丸1年を自由な年として過ごして、それから韓国に戻ってCPA(Certified Public Accountant)という、会計士になるための大きな試験を受けるつもりだそうだ。

彼女は英語が堪能で、そして優しかった。ラウンジで椅子に腰掛けながら、2人で他愛のない会話をしてユウキを待ちながら過ごした。学校のこと、留学のこと、ニューヨークの街の様子、他の国でどんなことを感じたかについてを、俺はインタビューしていった。俺は不足した英語だったけれども、会話を続けるように話していった。俺が「どうだった?」と聞くと彼女は「interesting」などと返してくれた。しかし、それはあまりに漠然としていて、抽象的な表現だった。悔しい。語彙力が足りないうえに会話にも慣れていないので、形容詞の何単語かでしか修飾ができず、表面上の会話しかできない。深い表現で会話ができない。おそらく彼女は「これこれこうこうで、こうだからこういった理由で、interesting」って話ができる能力があるものの、俺の語彙力にあわせて会話してくれているようだった。分かっていても、伝えたくても、言葉に出来ない。より詳しい感情を表現したいのに、言葉に出来ない。もっと話せる英語を勉強しなくちゃいけないんだなぁ。。。

それでも俺達は笑って過ごせた。彼女はいくばくかだけれども、日本語を知ってくれていた。「お金ないんだよねー」「ご飯おごって」「そうだよねぇ」「うんうん」なんかと。それから、日本語の50音表は読めたので、お互いにノートを取りながら、お互いの言語を教えあった。時折、英語や日本語、教えてもらった韓国語で冗談を言いあえた。

彼女は俺が言葉に詰まるとゆっくり考えるようにと促してくれた。言葉に詰まって「うーん」、と悩むと「うーん」と真似して返してくれた。「Sorry.」というと「Why sorry?」と聞き返し、そして「Thank you, thank you.」と重ねて言うと「Your welcome, your welcome.」と重ねて答えてくれた。俺はフィーリングで表現を押し切ったり、英単語を並べただけの会話しか投げかけることが出来なかった。だから確実に、彼女にとっては英会話の練習にならなかったに違いなかった。でもありがたいことに、そんな俺にでも申し訳なさをあまり感じさせないくらい、優しい接し方をしてくれた。

ラウンジで2時間ほど話していた。ユウキが来るまでなんとか盛り上がりつつも、会話が途切れないように話していた。しかし、日が暮れかけて18:00になって暗くなってきても、ユウキは戻って来なかった。「彼はどうしたんだろうねー」って話に何度もなった。しかし、ユウキは携帯を持っていなかったので、彼がここに来ないかぎ連絡手段がないのだった。結局、2人は仕方なく諦めて帰ることにした。

帰りがけのエレベーターで「今度、どっか行くときは誘ってよ」と伝えた。交差点の角に着いて、地下鉄のホームに降りる最後に「カムサ(ありがと)」と「アンニョン(じゃあね)」を言って別れた。それは彼女が教えてくれた言葉だった。

思うに、語学留学はできればもっと早い段階で経験しておきたいものだった。でもまだこの年齢で経験できてよかったとも強く思う。若くても世の中を知らなさすぎると貴重な経験も受け止められず、無駄になってしまうだろうから、今ぐらいの能力で留学するがちょうどいいのかもしれない。しかし、もうこれ以上歳を取ってからでは遅いような気がする。もっと年を取ってからここに来ている大人もチラホラと見かけけれども、彼らは大人としての建前があるから、恥ずかしさや弱いところを見せるのが難しいに違いない。今の年齢ではまだまだ恥がかける。失敗も、間違えも大して恐くない。知らない人に対しても違和感なく声がかけられる。それから、英語ができないと分かってもらえた後の方が、気張らずに自分のペースで話せる気がする。

ゴウン、今日は付き合ってくれてありがとう。にしても、ユウキからは何の連絡がなかった。一体ユウキは大丈夫だったんだろうか…。連絡が取れないと心配になってしまう。

帰りがけにいつもの24時間営業のドラッグストアで、ゴディバのバニラコーヒーを2.16ドルで買って、部屋に持って帰ることにした。最近もずっとそうなんだけど、今日も脳味噌が英語にフル回転だったから、甘いもんが飲みたくなるんだよね。

帰りに見かけたビルに張りついている電光掲示板によると、夕方の気温は22度だった。この時間帯は薄手の長袖でなくっちゃ、外では少し肌寒いぐらいだ。8月ももう27日になってしまった。ここでも日本でも、そろそろ夏は終わりなんだね。

19:00にYMCAに戻ると相方が先に帰っていた。彼もついさっき帰ってきたようだった。それからお互いの1日を報告しながら21:00まで日記を書いた。相方とは最近行動を一緒にしていない。彼は、最近はカレンやコウなどと午後の時間を過ごしているらしい。しばらくベッドでゆっくりしたので眠くなってはきたけれど、そろそろ洗濯物が溜まってきていて、残りの下着の枚数を数えると、パンツが足りなくなることが導き出された。相方を誘って22:00に地下のコインランドリーまで洗濯物を持っていくことにした。

コインランドリーの表記を読むと、25セントが7枚以上必要であるらしかった。そういえば、これは、以前同じLSIに留学した高校の友人に、前もって聞いていた話の通りだった。洗濯機には25セント6枚の1.50ドルが必要で、乾燥機は1回25セントを投入すると適当な時間、ドラムをまわすと表記がされている。そこで、俺は25セントを持ち合わせていなかったのでフロントに両替にいくことにした。相方はやるよな。彼も同じように高校の友人から話は聞いてたんだけど、洗濯のことも事前に視野に入れていて、空港のバス停の両替機で両替したときに、25セントを多めに確保していたというのだ。

実は、その高校の同級生というのは、今年の春に、俺をここLSIに留学するのを誘ってくれた人のことだった。彼は俺らよりも先にこのLSIとYMCAで1ヵ月間を過ごしていたんだけれど、その彼もコインランドリーで25セントが必要になって、フロントに両替をお願いしに行ったんだそうな。んで黒人のフロントの人に、必死に「マネー」を「チェンジ」だの「コイン」だのと言って「両替」してもらおうとお願いしたんだそうだ。だけど、フロントではそれが通じず、お兄さんに挙句の果てに「I don’ know Japanese.」と顔をしかめられたそうだ。

今回、俺が両替を申し出たところ、フロントでは「外のお店で替えて来い」との回答だった。もう、レジを閉め終わった時間だったのかもしれなかった。そこで、ビーチサンダルに部屋着のままで、外に出て近くに両替してくれそうなお店を探しに彷徨った。いつものドラッグストアの方を目指すと、そこよりも手前に、まだこの時間でもやっているベーカリーが視界に入る。そこで1ドル札2枚を25セント8枚に交換してもらえるかを頼んでみることにした。

「Could you change this money into 8 quarters?」と声をかける。すると店員は快く両替してくれた。ここの店員にとってみれば、買わずに両替とは迷惑な要求だったのかもしれなかった。でも久しぶりに日本でやりとりされるような爽やかな対応で両替に応じてもらえたのが嬉しかった。何も買わなかったのは申し訳なかったんだけどね。思えば、明日の朝食のパンでも買えばよかったんじゃないだろうか。

帰りがけに見た近くのアイス屋さんのマスコットが目に付いたので、激写。25セントも確保できたし、これでランドリーのミッションも突破できるぜ!

コインランドリーでは、日本から持参した洗剤(というより柔軟剤)を流し口から注いで用いるものだった。そして洗濯機をまわしながら、その間に22:30からシャワーを浴びに離れた。少々物騒だけども、ホテルでわざわざ洗濯物を盗む泥棒はいないとの考えだ。洗濯機の時間は読めなかったものの、おおむね30分ほどでできるようだった。

シャワーを浴びてランドリーに戻る。そして、洗濯機から取り出した洋服たちを乾燥機へと移していく。乾燥機では、相方は1回の利用では満足しなかったらしく、3回もまわしていた。乾燥機といっても遠心力で水気を飛ばすだけだったので、あまり役には立たなかった。さすがに3回もやれば差は出てくるのであろうけれども、完全に乾かすことはとても望める代物ではないと思い、俺は1回だけまわすことにした。

1ドルはチップとして配るのに必要。でもって25セントはコインを使う機械に必要。どちらも率先してとっておかなきゃいけない。レストランなどではチップの分も考慮してキリよく支払うことも多いし、割り勘では端数はいいよってことで、キリよく払ってしまうこともある。だからそれ以外の機会のときに、例えばレジでのお会計のときには、面倒でもお釣りを考えて、25セントをもらえるように計算して支払わなくちゃならないのね。。。

23:30には部屋に戻って、前に買っていた板のミルクチョコをかじって、まだ半乾きのジーパンを備えつけのハンガーで部屋干しして、残りの衣類も乾かすためにスーツケースに広げて置いておいた。このままこのジーパンを履いたら気持ちが悪そうだ。

相方は夜に寝るまでの間はパソコンを広げてニコニコ動画と2ちゃんねるを見て過ごしている。相方はクールに読書とかに興じているイメージがあったので、ネットにハマってるのは意外だった。一方の俺はこっちでは、いつも家で見ているmixiなどは、ほとんど見て過ごさない。それはわざわざこっちで見るのはもったいない意識があるので、その分の空いた時間はここまでの通り、滞在記の執筆に費やしているのだ。

一緒にパソコンを広げながらそれぞれのベッドに横たって、相方と予定や、最近の活動や情報なんかを同期していった。そして、0:30に床に就くことにした。相方とは日中にあまり会うこともなく、ともに行動をしていない。これもやはり、俺としては、ここでは外国人と過ごさないともったいないと思っているからってのが理由なのかもしれない。相方と過ごすのは日本でもできることだし、それじゃ留学が観光になってしまうから、もともと示し合わせてのことだ。相方もカレンとともに留学生活を楽しんでいるようで、特に問題はないようだ。

あ、そうそう、パソコンを開いたらユウキから謝りのメールが来ていたよ。ホームステイ先とまだ揉めているんだね、大変そうだなあ…。今日の放課後に書いたノートをもう一度読み返して韓国語も復習しておく。今夜はおやすみアニョハセヨ。

「お金ちょうだい」は「トンジョンジョ」、「ご飯おごって」は「パッサージョ」、応用して「ご飯ちょうだい」は「パッジョンジョ」。「知らない」は「ボラ」、「何?」が「モエ?」で、「あなた元気?」は「ニネモエ?」、「何見てるの!」は「ボルバ!」。あと韓国人が好んで冗談で使うのが「コジマジェニー」、これは「嘘つきー」って意味らしい。挨拶は「ありがとう」が「コマプスニダ」と「カムサムニダ」、「どういたしまして」が「チョンマネオ」、「アニョン」は若者言葉で「バイバイ、こんにちは」、「カムサ」も若者言葉で「ありがとう」、「アニョハセヨ」は「こんにちは」、「さようなら」は自分が立ち去るときが「アニョンヒゲセヨ」、相手が立ち去るときは「アニョンヒガセヨ」って使い分けるらしい。あと、「きれいです」は「イプネョ」「イポヨォ」「イプダ」、「可愛いです」は「キョッダ」「キョワョオ」「キョネォ」のように、「です」には語尾が3種類ぐらいあるみたい。

英語だけでなく、いろいろな国の言葉も話せると、コミュニケーションがとりやすいよなぁ。韓国語も使いこなせるといいなぁ。

弦本 卓也

1987年、埼玉県生まれ。大学卒業後、大手広告会社「リクルート」にて不動産メディア「スーモ」(SUUMO)の運営に従事。新卒で入社して、スーモのメディアづくりを7年、その後にエンジニア組織の組織づくりを4年行う。 また、リクルート社内の部活動制度にて「大家部」を立ち上げ部長を務める。不動産投資に関する情報交換や物件見学のワークショップなどを行う。 入社2年目に新築一戸建ての広告を取り扱う部署に異動したことをきっかけに、「いい企画を作るためには、まずは自分で経験したい」という想いから個人で新築一戸建てを購入。その翌年には売却分野を担当したことをきっかけに売却も経験。マンションの売買なども行い、11年間で11回の引っ越しを経験。 「新しい住まいや暮らしを自ら探究したい」という気持ちで購入した東京都千代田区の神保町の中古ビル「弦本ビル」は、コワーキングスペース、シェアオフィス、シェアハウス、飲食店が入居する複合ビルとなっており、20代を中心とした若手社会人や学生のやりたいことを実現する場所として注目を集めている。3年間で延べ1万人以上の来場者を記録し、家賃年収1,400万円を達成しながら満室経営を続けている。 お金面とビジョン面の両立を大切にしており、モットーは「一人ひとりの可能性をもっと世の中に」。会社員を続ける傍ら、学生時代に起業した会社とあわせて株式会社を3社創業。うち1社は売却し現在は2社を経営している。他にもエンジェル投資家として若手実業家の支援を手がける一面も。 日経新聞や不動産業界紙、書籍や雑誌、テレビなどでも多数の注目を集めておりセミナー講師なども行う。宅地建物取引士を保有。

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