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僕らのプロハの作り方。

目次

プロハとは?

トーキョープロデューサーズハウス(以下、プロハ)とは、神田錦町に2015年4月にオープンした会員制のコワーキングスペース&イベントスペース。

昭和50年代に建てられた5階建てのビルを自分たちの手でデザイン・リノベーションした約90平米のスペースには、現在20名を超えるメンバーが登録している。

通常のコワーキングスペースとは異なり、会員同士の交流を大切にし、日常的にイベントが開催されているところが最大の特徴だ。
毎日生まれるアイデアと人脈をもとに、新しいことにチャレンジする人を応援する、そんなワクワクに満ち溢れた空間が、プロハなのである。

PRODUCERSとは?

何かをはじめる、そのきっかけになる。この冊子『PRODUCERS』は、トーキョープロデューサーズハウス(以下、プロハ)のメンバーたちが、これから新しいことにチャレンジする想いを語ったインタビュー集だ。
2016年春、プロハ開業1周年を記念し、ビルオーナー弦本卓也の「本をつくろう」という声のもと、2ヶ月間にわたりインタビューと制作が進められてきた。

登場するメンバーたちは、いずれも毎日新たなチャレンジを続ける若い世代。登場するキーワードは、転職や起業、ダブルワーク、コミュニティづくりなど、若い世代にとって関心のあるテーマばかり。自分の仕事について何かのヒントを手に入れたいすべての人にとって、ヒント満載の1冊だ。
プロハを盛り上げるメンバーたちは、日々何を考え、行動しているのか。
次ページからは早速、このプロハの誕生ヒストリーを探っていこう。

Prologue1 弦本卓也の話。

新卒でリクルートに入って、スーモに配属されました。それまではそんなに不動産が身近ではなかったんですが、仕事をきっかけに、家を借りる人の気持ちや、買う人や売る人の気持ちに興味を持ちました。スーモは、不動産会社の広告を掲載するメディアなのですが、ウェブでの良い商品や企画をつくるためには、やっぱりユーザーの気持ちを知らないといけないと思ったんですよね。それまでは日本橋の雑居ビルに住んでいたのですが、豊洲のタワーマンションを「借りて」シェアハウスをしてみたのが、社会人1年目でした。社会人2年目には新築戸建ての部署に配属され、新築戸建てを「買い」、その翌年に今度は売却に関わったので、「売る」ということをしたんですね。その戸建では、シェアハウスをしたり、地方の就活生を泊めたりということをしていました。実際に自分で不動産を売買し、様々な暮らし方を体験することで、住宅という高い買い物をすることの不安や、自分の住まいを実現することの喜びなど、ユーザーのリアルな気持ちを理解して、企画の仕事に活かすことができました。

ビルとの出会いは、戸建てを売買したときに担当してくださった不動産仲介会社さんがいきなり「面白いビルがある」と電話をかけてきたことでした。「ビルなんて買うわけないじゃないですか」と冗談で答えて。でも、「面白そうだから見に行きます」とすぐ行きました。そしたら、築36年で古く、5階建ての小さなビルであるものの「食べる・住む・働くがコンパクトにまとまったこのビルは面白い」と思い、すぐに購入に至りました。特に良かったのは、4階に和室があって、都会のど真ん中なのにおじいちゃんの家みたいなところ。とはいえ、住宅ローンなど色々出費がかかることに気付いて、でも新しい暮らしをしたいと思っていたので、業者さんにはお願いせずに直接人づてで、借りてくれませんかとお願いしてまわりました。最初にリクルートの同僚の今村さんが結構面白がってくれて、いろんな人を紹介してくれ、そこで西田さんと出会い、西田さんの紹介で源君に出会い、源君の紹介でビルの近くのグッドモーニングカフェで会ったのが、早野君との初めての出会いでした。

Prologue2 早野龍輝の話。

同世代交流会の88年会というのをもともとやっていて、同世代でいろんなことをやりたい人と話していたのですが、その中で斎藤君というメンバーがいて。当時斎藤君は無職だったんですけど、2人で下北沢で遊んでいて、お笑いライブを見た帰りに、お笑い芸人みたいに頑張っている人を劇場かイベントスペースかなにかつくって応援したいよね、と。それが最初でした。2014年6月くらいですね。当時僕はハッピークォーターセンチュリーという「25歳で人生を変えよう」というイベントを企画していたのですが、その前後で頑張っている人やいろんな人に会っていたので、そういうのがかなり大きかったですね。
SEKAI NO OWARIというバンドがいて、そのバンドが神奈川かなんかの外れの倉庫を改装してライブハウスにしたという話を聞いて、スゴいなと。自分もちょっと古い家や小屋とか倉庫を改装してそこにステージをつくって、それと並行してパソコンを使えるスペースがあったらすごい面白いなと。そういうのが漠然とあったんです。同世代交流会の88年会というのをもともとやっていて、同世代でいろんなことをやりたい人と話していたのですが、その中で斎藤君というメンバーがいて。当時斎藤君は無職だったんですけど、2人で下北沢で遊んでいて、お笑いライブを見た帰りに、お笑い芸人みたいに頑張っている人を劇場かイベントスペースかなにかつくって応援したいよね、と。それが最初でした。2014年6月くらいですね。当時僕はハッピークォーターセンチュリーという「25歳で人生を変えよう」というイベントを企画していたのですが、その前後で頑張っている人やいろんな人に会っていたので、そういうのがかなり大きかったですね。
SEKAI NO OWARIというバンドがいて、そのバンドが神奈川かなんかの外れの倉庫を改装してライブハウスにしたという話を聞いて、スゴいなと。自分もちょっと古い家や小屋とか倉庫を改装してそこにステージをつくって、それと並行してパソコンを使えるスペースがあったらすごい面白いなと。そういうのが漠然とあったんです。

当時、虎ノ門にリトルトーキョーというのがあって、そこのイベントスペースが最初イメージに近かったです。そこはもともと寿司屋だったところを改装していて、大通りだから人も通るのに、適度に古びていて、いい感じで改装しているんです。それをみて、このくらいのサイズだったら自分でも友達とやったらできるんじゃないか、と。工事費などプロにお願いするお金はなかったんですが。
それと、もうひとつ。池袋に住んでいたのですが、池袋に天狼院書店というのがあって、そこはもともと書店でやっていたんですが、次第にイベントをやったり会員を意識するようになって盛り上がっていました。多少立地が悪くても、自分も趣味が合う人たちを会員にしてやって、ファンができたと面白いなと。それで面白いことがどんどんできたら、さらに幅が広がるなと考えたのが最初のきっかけですね。
ただ僕も当時は会社員だったので、仕事もバタバタだし、毎月のイベントに向かって準備をしていた段階で、それはまあ漠然としたアイデアだったんですけどね。

Prologue3 梶海斗の話。

スリーマンスプロジェクトといって、リクルートの2年目から先輩の力を借りながら事業を始めました。
表参道駅と渋谷駅の真ん中あたり、ファーマーズマーケットの向かいあたりに、プロハの半分くらいのワークスペースを持っていました。先輩のオフィススペースを間借りしていて、そこで、「教える・学べる」のマッチングスクールビジネスというのをやっていました。ヨガスクール、コーヒースクール、スムージースクールやボディメイキングスタジオとか。
ただやっているときに、途中で先輩のオフィスが新宿に移転することになり。新宿だとオフィスという感じが強くなってしまうので、あまり自分がやっているビジネスに向く環境ではなくなってしまうなというところもあったんです。

自分自身が事業をするにしても仲間を集めて始めるにも、まず場所が必要だなと思い始めたことと、学生時代に出身の京都で「関西学生サミット」という動員千名を超えるイベントをやっていたんですが、そのときイベントの1ヶ月前に仲間内で集まって、シェアオフィス兼宿泊所みたいな感じで活用していた時期がありました。そのときに、「場所」が持つ力を実感したんです。
短期間でも場所があるだけで、そこに誰かいるから集まる、そこから何か生まれるということがあったと思い出しました。
自分の理念でもある「俺、これがやりたいねん!って言って、やる人が増える社会をつくる」と考えたときに、自分のように関東以外の出身の人が東京で何かを始められるスタートアップかつ自分の事務所のようなところが欲しいなと思ったところがありました。
そして、早野君も場所が欲しいと言う。早野君は早野君でやりたい理由があって、自分も場所が作りたいということで、とりあえず場所を探してみるかということで、渋谷の街に繰り出したわけです。

作り方その❶  思いついたら即行動する。

早野  それまではイベントをやる人を集めようと思っていたんだけど、確か2月1日かな、イベントを企画したりプログラムを作ったりするプロデューサーという感じでメンバーを集められたら格好いいな、と急にふと思いました。「TOKYO PRODUCERS HOUSE」(トーキョープロデューサーハウス)という名前がすぐに浮かんで、渋谷かどこかに、ひとり1万円を20人集めたら20万円の物件を借りられるんじゃないかと。
それで、その日のうちにパワポをつくって、梶君にそのまま送ったんですよ。そしたら、梶君もいいねと言ってくれて。その資料をもってそのまま候補になりそうな知り合いに声をかけはじめました。
その週から梶君と僕と、メンバースカウトのために喫茶店で見込みがありそうな人に会うようになりました。相手は女性だったり芸能関係の人だったり。とにかく、いろんな人を呼び出して話を聞いてもらっていました。
最初は20万円集めて部屋を借りるしかなかったので、「なんでそういう形態なの」「部屋を借りる必要あるの」とかそういう質問があって。確かに、そうだなと。
もしかして渋谷でマンション借りてやっても、そんなに意味がないんじゃないか。やるなら、丸ごとだというのが、最初にあった。当然ノウハウがないから、どうしたらいいかわからなくて。僕も梶君も建築分野にまったく見識がなかったので、ぼやっとしたものが浮かんだまま、2月が終わったかなという感じです。そして同世代でイベントやブランド運営をやっている人たちとの飲み会を5人でやろうということになって。それが3月最初ですね。そのときに、源君という人がいたんですけど、「早野さんに紹介したい物件があります」と言われて。何だろうと思ったら、神保町で中華屋のビルを買った、我々の1歳年上のリクルートの人がいますと。当時梶君は、どう思っていた?

  資料をもらって、正直あまり憶えていないところもあります。とりあえず早野君はすごくオシャレ感を大切にしていたなと。
当時、渋谷のオフィスを出て、たとえばサイバーエージェントの女の子に会うなら今日はおしゃれなカフェでミーティングしなければいけないとか、オシャレ感にこだわっていたかもと思い出しました。
確かに色んな人と話す中で、ただ場所をつくるだけでは面白くないというところもありました。場所自体がコンセプトなので。見た目もそうだし、出入りする人もそうだし。最初は88年会の人たちとやろうと話していたので、同世代でと思い描いていました。源君との話はそんな感じです。

早野  源君のフェイスブックで見たら、そのオーナーと中華屋さんがぱっとしない感じで写っていたんです。一応飲み会で源君から好きにしていいと聞いていたので。どうせやるなら丸ごとと思っていたんで、好きにしていいなら見てみようかなとすぐアポをとりました。それが、3月上旬ですね。結構、職場から近いなと。当時ビルに来たときに、弦本さんと源君と3人でビルに入りました。
そのときはまだ、前のオーナーの松岡さんが住んでいました。まず2階に入ったら、松岡さんの弟さんがこたつを出していて、ここに住んでいらっしゃると。それにすごく衝撃を受けて、こういう使い方をするのかと。でももうすぐ松岡さんたちは、出ていくらしいと。そして、ものすごくモノがあったんです。各フロアに、段ボールがそれぞれ100箱ずつくらいあり。3階も同じような感じでした。 4階に上がると和室があり、おばあちゃんが住んでいて、急に、高齢者ホームみたいになっている。当時、奥の部屋が仕切られていて、そこに仏壇がありました。しかも片方の部屋は、暗くてタンスで埋め尽くされていて。でもそれも全部片付くと言われました。5階に上がると、子供がいて、新築みたいでここは増築部分かなと。当時5階は、イメージとかけ離れていたから、なんだかなと思いました。梶君が上のほうにエンジニアやデザイナーさんなどのメンバーが住んでいたら面白いよねと。同様の物件が当時祐天寺にあって、プロトという名前だったのですが、それを参考にしたのもあります。結構それだったら丸ごとできるし、人が住んでいたら、面白いよねと。まだ親しみがない立地だけど、これは面白いかもと、梶君にふったわけです。
当時弦本さんには、なんとなく「トーキョープロデューサーズハウス」のアイデアを話していました。当時それ以外にやりたいことが2つアイデアがあったんです。ひとつは、ひな壇のようなものを考えていました。芸人のひな壇があるんですけど、誰でもトークイベントが楽しくできるスペース・ひな壇をつくろうと。次が、「トーキョープロデューサーズハウス」で、3つめは何かあったんですが、忘れました。で、弦本さんが面白いといって興奮したのを憶えています。

    ビルを見学するとき、僕は予定があったので行けなかったので、早野に見てきてもらったんです。早野が言うには、なんか丸ごとできるのは面白そうだということに。オーナーさんも年が近いし、やりやすそう、リクルートの社員だけど、人当たりの良い人だしきっとうまくできるだろうと。それに、アイデアに賛同してたよ、と言ってました。
ただ、その物件を見ないと、なんともイメージがわかないと思ってて。そもそも、松岡ビルのまえに、源君に連れられて早野と渋谷のコワーキングスペースを3件くらい見て回って、物件探しをしてたんです。自分の人材のスキルと彼の不動産の知見を活かして、何かできないかなと。
当時、僕は広尾に住んでいて、源君は麻布に住んでいたので、六本木通りを登って、二人で歩きながら話していました。そのときにひらめいたのが、職住一体型の建物。シェアハウスをちゃんと併設していて、家賃が仮に 20万円だとしてもプロジェクト単位で稼ぎ、どれだけ働くかによって家賃を下げる。そして次に給料が発生すると。
そういうモデルで「働く」と「住む」が一体になった場所があったら面白いんじゃないかという話で盛り上がりました。 その夜早野君に、ひらめいてしまったと電話したのを鮮明に憶えてますね。
ただ、それができる場所があったらいいなと思っても、当時の渋谷ツアーで回ったところは、コワーキングを利用できる人にしかなれないので、ちょっと厳しいなというのがありました。

作り方その❷ 他のビルから学ぶ。

弦本  2月は、ひたすら人に会っていました。1ヶ月で約100人に会って、ビル物件を見てもらっていました。昼休みになったらタクシーに乗ってランチがてら会社の人に見せたり、社外の人と待ち合わせして見てもらったり、1階の中華の店に中国人の知り合いをつれていって味はどうかと聞いてみたり、結構緻密にやっていました。お店を自分でやるならどうするか、家賃をどうするかなども考えていました。ひたすら人に会って、とにかく面白い場所にしたいと伝えていたんです。やっぱり年が近くて想いが一緒の人とできるといいと思ったんですけど、最初に早野君と会ったときは複数案持ってて、面白いと思っていました。研究のために他のビルの活用事例も見てみたいということで、3人で一緒に祐天寺にあるプロトを見学しに行って、こんな古いビルでも活用できるんだと早野くんは多分思ったのでは。

早野  プロトの方に、ビルをやるにあたって、不動産がその建物である意味がないならば、うまくいかないと言われて、なるほどと思った。自分でも祐天寺で経営に携わっているときいて、弦本ビルを見る前にプロトにいくことは決まっていました。プロトに行く前に、ちょうど弦本ビルの情報を聞いたんです。確か、2回行ったよね。
プロトは、2015年3月で閉まるから、半年限定でデザイナーの方々に貸されていました。センスのあるイケてる方が多くて、内装がとにかくきれい。1階がお菓子屋かなんかで、広い店舗用。2・3階がオフィス、4階がマンションで、すごい造りが似てるなと。壁や床をよく見てみたら手作りで、これならいけるじゃんと。
これが3月で、ここが閉まるなら、俺たちが次にやろうと。なんなら家具ももらおうと。その後何回かプロトにいって、ほぼ研究し終えたのが3月末ですね。結果的にはパイプ椅子30個とソファベッドまでもらったんだから、ラッキーだったよね。梶君は、最初の弦本ビルの印象はどうだった?

 ビルの印象は、とりあえず中華の店だし古いビルだなと。しかも神保町もなじみがないし、降り立ったのも初めてというところから始まりました。5階から順に見て、まず4・5階は面白いなと。もともと住みながら働くというアイデアがあって、おんぼろの中華ビルを見てみると、5階は結構キレイだし4階はなぜか和室みたい。ここに住みながら、なにかできたらめちゃめちゃ面白いなと。3階と降りていくにつれて、クーラーとか使えるのかなと思って、正直やるとしたら4階か5階のどちらかだけを使って、2・3階だけはキツいと思っていました。やってもいいけど、わざわざここでやる意味はあるのかと。固定の家賃も発生するリスクを考えて、「いったん保留にしよう」と早野に話したのを憶えています。
次に、プロトのほうは、すごくわくわくした。「住む」というのもできてるし、プロトタイピングするというコンセプトもよく、自分たちで好き放題やっているのがいいなと。
DIYのムービーが残っていて、全部見せてもらって、すごく良さそうと思いました。結果、好き放題できるというのがひとつのポイントでしたね。神保町という立地やビルは正直イマイチだけど、弦本さんとの人間関係を考えると、好き放題やらせてもらえるからやりませんか、という話を早野にした記憶があります。

早野 最初の話に戻りますが、セカオワのライブハウスのように好き放題できるという、そこにハマりました。じゃ、借りるかと。やらないと始まらないでしょ。ちょうど春で、3月下旬くらいでした。やるならその日しかない。多分そこで決めないと、ほかの人にとられるし、それは悔しい。多分そこで決めないと4月に始めることもできない。夢にも、決めなさいとお告げがあったので(笑)、翌朝決断しました。1年後きれいになっているイメージができたので、やりましょうということに。で、早速契約して、弦本さんの人間関係の広さが垣間見え出して、ワクワクして眠れなかったのを思い出します。

作り方その❸ 自分たちの手で壁を壊す。

早野 3月31日、1日早くプロハの鍵をもらえて、会社に黙って抜けてきて、鍵を開けたら、本当になにもなくなっていた。いよいよ、これから始まるんだと。ぼくも社会人3年目が終わろうとしているその日でした。
明日からどんなことが始まるんだろうという思いでワクワクして、とりあえずそのまま神保町の金物屋に行って、壁をはがそうと、削るためにスクレイパーというものを買って使ってみたら、面白いようにはがれていった。はがしてはがして。そしたら、ほどなく梶君が来てくれた。床もはがして、思いの外プラスチック素材だったのでガラッと割れて、これイケるじゃんと。10日くらいで床と壁をはがそうと、90平米すべてはがす作業をはじめました。当時、上も工事しているし2階も工事しているし、本当に始まったなというのを思い出します。
そしたら梶君の知り合いでちゃか(高柳龍太郎)の友達がいて、施工のできる人がいて、すぐにでも天井をやってくれると。それで、翌日の4月1日に依頼しました。

 当時、スリーマンスプロジェクトというのをやっていて、そこから派生してジョブラボと言うのをふたりでやっていました。先輩のオフィスでやっていたので、ジョブラボも新しい場所に移転することが確定していたので、ちゃかのお父さんも内装工というのもあり、DIYをしたがっていました。工事をしたいからきて、とかるいノリで誘ったら来てくれました。当時僕は働いてたので、現場にはちゃかと早野がいました。

早野 プロトを見ていたので、天井をはがすとプロトのようにキレイになると思っていたんですよ。天井を壊してくれるというので、 3時間くらい会社に行って戻ってきたら結構天井が半分くらいなくなっていた。もう、すぐだなと。
それで、弦本さんに写真を送ったら…。

弦本 フェイスブックでメッセージがきていて、「今から天井壊します」ときてるかと思えば、「壊しました」、そして粉塵が舞っている写真を見て、この世の終わりだと思ったのが4月1日(笑)。
3月31日の朝に、売主のおじいちゃんたちと契約してちょっと抜けさせてもらったときに鍵だけを渡してました。
自分で買ってあまり見てもいないうちに一度鍵を渡したとき、たしかにDIYも可だという条件で契約していたのですが、本当に4月1日の時点でかなり天井が剥がされていて。衝撃を受けました。

早野 当時は僕も知識がなく、埼玉の郊外にいい焼却場があるよと聞いて、トラックを借りて、予算は結構あったのでバンバン捨てようという感じでした。すぐに有給をとって、ちゃかと友達の佐藤君と3人で2時間くらいかけていったんですよね。
産廃処理場に行ったのは初めて。外国人が働いているようなところで、ここどこみたいなところでした。
その日は4月3日で、桜も咲いていて。捨てるんだけど、なんだか始まったなとすごくワクワクしていました。そして新しいことをやるから、自分自身も変わるなとすごく感じていました。弦本さんは、天井の衝撃もあって、なかなか反対派だったと思いますが(笑)。

弦本 3月31日に契約した後、鍵を渡して1 日で壊されたけど、4月2日にはお披露目パーティー兼見学会をやったんですよね。なので、31日からイベントのためにクリーニングもいれて、3階もきれいにしていました。2階も見せたいと思ったら、天井が壊れていて。アスベスト物件かもしれないという話になり、人の命に影響するから開催しないほうがいいかもという話までしていました。結局アスベストではなかったんですけどね。まあそういう象徴的なイベントもビルのお披露目というときにありました。

早野 その後、弦本さんの誕生パーティーと別で、4月6日かな、僕たちのほうでもお披露目パーティーをやったんですよ。その日だけ3階でやって、約20人来ました。コンビニでお菓子を買って。プロジェクターに写して野望を語ったり。その流れで工事を始めたての2階を内見したら、一部の人はワクワクしてました。手応えありましたね。
その後も工事していくと、どうやら天井だけは自分たちでできないことがわかったんです。壁は剥がし終わったのですが、天井だけは電気系統がブラブラしているけど勝手にやっちゃいけないと。

 その頃から大ちゃん(日比大輔)も出入りするようになって、大ちゃんは僕についてきてくれるので。毎日そんな感じで手伝ってもらいながら、なんとかやっていました。天井はどうやったらいいのかわからないということになり、早野のアイデアで布にしたけど、思ったより良くて、これはこれで良かったんじゃないかと。結果的に。

早野 最初はメンバーを集めなきゃと、工事しながら「一緒に作業しない?」と巻きこんでいました。ただ、うまくまだプロハの現物ができていなくて、急にボロボロのビルをみせられて、「一緒にやろう」と言われてもイメージができなかったのかなというのもありました。
当初のメンバーは思ったより集まらなかったですが、とにかく4月イベントに向けて、イケアの椅子を20個とスクリーンを並べて。それが初回のイベントでしたね。そこから、プロハの毎日が始まったわけです。

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ABOUT US
弦本 卓也
1987年、埼玉県生まれ。大学卒業後、大手広告会社「リクルート」にて不動産メディア「スーモ」(SUUMO)の運営に従事。新卒で入社して、スーモのメディアづくりを7年、その後にエンジニア組織の組織づくりを4年行う。 また、リクルート社内の部活動制度にて「大家部」を立ち上げ部長を務める。不動産投資に関する情報交換や物件見学のワークショップなどを行う。 入社2年目に新築一戸建ての広告を取り扱う部署に異動したことをきっかけに、「いい企画を作るためには、まずは自分で経験したい」という想いから個人で新築一戸建てを購入。その翌年には売却分野を担当したことをきっかけに売却も経験。マンションの売買なども行い、11年間で11回の引っ越しを経験。 「新しい住まいや暮らしを自ら探究したい」という気持ちで購入した東京都千代田区の神保町の中古ビル「弦本ビル」は、コワーキングスペース、シェアオフィス、シェアハウス、飲食店が入居する複合ビルとなっており、20代を中心とした若手社会人や学生のやりたいことを実現する場所として注目を集めている。3年間で延べ1万人以上の来場者を記録し、家賃年収1,400万円を達成しながら満室経営を続けている。 お金面とビジョン面の両立を大切にしており、モットーは「一人ひとりの可能性をもっと世の中に」。会社員を続ける傍ら、学生時代に起業した会社とあわせて株式会社を3社創業。うち1社は売却し現在は2社を経営している。他にもエンジェル投資家として若手実業家の支援を手がける一面も。 日経新聞や不動産業界紙、書籍や雑誌、テレビなどでも多数の注目を集めておりセミナー講師なども行う。宅地建物取引士を保有。