Sep/01/2008 MON 快晴
睡眠0:30→8:00
8:00起床、あっちゃっちゃー。ダッシュでシャワーを浴びて、8:30から身支度を始めて9:00にユウキとの待ち合わせの地球儀へと旅立った。今日も相方はまだ目覚めていない。彼は明らかに俺より睡眠を必要とする人間のようだ。彼は、休みの日だけでなく、学校の日にも目覚ましをセットしていないらしく、その結果彼の寝顔を見ることが多いようだ。
ユウキは8:50に待ち合わせ場所に来ていたらしく、今日は先に来て待っていてくれていた。そこから2人でタイムワーナーズセンターの地下の、WHOLE FOODSに移動して、苺とパイナップルの詰め合わせを3.47ドルで購入する。
そして、その果物の入っていたプラスチックのパックを利用して、昨日買ったシリアルを開けて、これまた昨日購入したミルクを注いで食べる。シリアルはクッキーに練りこまれた蜂蜜が甘くて美味しかった。ミルクは日本のそれとはまるで違っていて、さらさらしていて水のようだった。
食後9:45になり、余ったミルクとシリアルをYMCAに置くのにユウキに付き合ってもらった。すると相方が目覚めて身支度をしていた。相方はひとりで出かけるという。
今日はアメリカでは勤労感謝の日だ。今日は混まないうちに朝からフェリーでリバティ島に行って、自由の女神を見る予定だ。LSIのジュリー先生は金曜日の授業のときに、祝日は行きたいところが空いているかどうかを事前にネットで確認しておくようとよいというアドバイスをしてくれていた。でも俺は事前に調べるのを忘れていたのを思い出した。祝日だから混みそうだけど、あいているんじゃないかなぁ。
軽い雑談をして部屋の荷物を少しだけ置きなおして、10:00にYMCAを出る。いつも通りの59St.駅でレッドラインに乗って、1番の列車で今日はサウスフェリー駅に向かう。サウスフェリー駅はいつも降りる駅、キャナルSt.駅よりも先にある駅だ。このとき、途中で列車が切り離されることに注意して、あらかじめ先頭の5車両までに乗っておいた。サウスフェリー駅で降りたら、こないだ乗ったフェリーとはまた違うフェリー乗り場から、フェリーに乗って女神に会いにいく。こないだユウキと下見に来た公園、バッテリーパークの側に向って歩く。やはり、今日はこないだよりもずっと混んでいる。祝日なので、観光客が多く集まってきているようだ。
10:30にはサウスフェリー駅に着く。サウスパークの公園を突っ切って歩き、クリントン砦と呼ばれる茶色いレンガで囲まれたところにフェリーのチケットを買いに並ぶ。
列に並び、砦の陰で日光を避けてしばらく立った。チケットは12ドルだが、これはフェリーに乗って女神にも会えるチケットだ。そして11:00からは、今度は海岸沿いの炎天下を、列に並んで30分ほど待った。列の合間では楽器を弾いてお金を乞う年配の黒人たちが多くいた。日本ではあまり見られないんだけど、こっちでは、電車内での物乞いや、何かを訴えながら、そして歌いながら、腕のこぶや目が見えないことを見せつけながらお金を欲しがる人が多い気がした。そんな彼らを1日に1度は見かける。個人的にはコロンブスサークル駅の地上でストンプというのだろうか、プラスチックの空箱や金属のゴミ箱を叩いていた黒人のパフォーマンスがすごく印象深かった。
列の先に進み持ち物検査を通過して、こないだよりは小さい、中型のフェリーに乗る。やはり女神様は重要な建造物なので、観光客への事前のX線は欠かせないようだ。
11:30になり、船はリバティ島へと向けて出航した。このフェリーはこないだ乗ったオレンジ色の船よりも小さいので、波に大きく揺られて少し船酔いがする。
リバティ島の目前になると、船内の観光客たちから歓声が放たれた。船は少しの間のサービスということで、エンジンを切って女神の目の前で停留する。その間に、観光客たちは女神の写真撮影をするのだ。こんなにも近くで正面から女神を眺められるフェリーは、海上ではこの船しかなさそうだ。
フェリーを降りると、女神は視界からどこかに消えてしまっていた。リバティ島はなかなか大きな島のようで、すぐに歩いて自由の女神にたどり着くというわけではない。島の海沿いを、ぐるっと女神の正面に向かって、まわって歩いていく。
途中で、日本人の観光客女性2人に、写真を撮ってくれと話しかけられた。彼女たちはチケットを買った時に、前にいたギャルとはまた違う子たちだった。彼女たちは韓国人の男性をひとり連れて歩いていた。少し話をしてみるに、彼女たちはLSIとはまた違う語学学校に通っていて、ひとりは1歳年上の明治大学の文系の人だった。留学して2ヵ月目と言っていたけど、その明治の子は韓国人の男性と手をつないでいた。こっちに来てから付き合いはじめたんだって。お礼にということで、ユウキとのツーショット写真を撮ってくれた。
女神の台座の近くから胴体のなかに入るためには、チケットを見せて、再び荷物チェックを受ける必要がある。列に並ぼうと試みたものの、前にいた係りのおばさんに、購入したチケットではなかの美術館や台座には登れないと言われてしまう。
そのため仕方なく女神の足元に戻ることにした。もうこれ以上は女神様にお近づきになることができない。なかの美術館では、展示物や歴史が堪能できるらしかった。渋々と運命を受け入れて、ユウキとふざけてパンチラと称して下からのアングルでの撮影をして、まわりの景色も十分に堪能して、帰りのフェリーに乗ることにした。
女神は肉のつき方、服のシワ、表情などが丹念に作られていた。銅をシートのようにつぎはぎにして組み立てたような跡も目に入った。フランスからプレゼントされて建設された100年以上も前には、色は銅そのものの色だったらしい。現在は酸性雨の影響で、緑青のような緑色をしているのだという。
空は青く、澄んでいてとても綺麗だった。もと来たマンハッタンの島の方には、何台かの飛行機が見えた。それが徐々に近づいてくる。なにかの宣伝なのだろうか、空に飛行機が並走して、アクロバットなショーのようなものをしはじめる。彼らは綺麗に並んで飛び、空というキャンバスに飛行機雲できれいにドット字を描いていった。これは、新しく美術館がオープンしたって意味なのかな?
マンハッタンに戻ったら、インド料理屋に行こうという話になった。帰りの船はしばらく待って、12:40にリバティ島を出港する。乗り場では離れたところにいたけれど、先ほどの日本人2人と韓国人1人も同じ船で帰るようだった。そのうち、日本人の、韓国人と付き合っていない方の女性は、ユウキの好みらしかった。おとなしめの子だったような印象だった。
船に乗ると、その集団と近くなったので、せっかくなので韓国人と英語で世間話をすることにした。語学学校は知らない名前のところだったけど、彼の流暢な英語にもなんとかついていくことができた。日本人と比べて、韓国人は英語を上手く話せる人が多い印象だ。
その後に乗った船は15:00に見慣れないところに着いてしまった。そこはエリス島という場所だった。もとの場所でなかったので焦ったものの、韓国人の男性は先に降りて、俺らに別れの挨拶するために、俺らが降りてくるのを待っていてくれていた。挨拶して握手をして、俺は自己紹介カードを彼にだけ渡して別れた。本来の予定ではバッテリーパークに戻ってインド料理屋さんにいくはずだったんだけれど、せっかくエリス島に着いてしまったので、そこにひとつそびえ立つ博物館に入ってみることにした。
博物館では移民として受け入れた人数の変遷や、アメリカ大陸の様子、アメリカの歴史などが展示されていた。エリス島は昔は、移民の受け入れ口としてだれもが通過しなくてはいけない入国管理の施設だったようだ。俺たちは2階まで一通り、小走りでさーっと見て歴史を学ぶ。
足早に表に出て、行列に並んでで帰りのフェリーを待つ。そうか、乗ってくるフェリーを間違えたもんだと思っていたんだけれど、実際にはリバティ島からエリス島を経由してマンハッタンに戻るっていう観光ルートだったんだね、きっと。降りずにずっと乗っていれば、サウスフェリーに直接帰れたかもしれない。
そして、15:40にエリス島を出発するフェリーに乗って、やっとのことで16:00にマンハッタンのサウスフェリーへと帰ることができた。サウスフェリー駅はレッドラインしか通らないので、ユウキの行きたいといっていたインド料理屋さんに行くために近くのグリーンラインまで歩く。最寄りのボーリンググリーン駅からグリーンラインの地下鉄にもぐって、目的のアフタープレイス駅へとアップタウンしていくのだ。
アフタープレイス駅は、初日に相方とホテルに着いたあとに、食べにいった美味しいラーメンのある駅だった。駅からは地図を見ながら効率よく歩いて、16:30ごろにインド料理屋さんのパンナⅡにたどりつくことができた。途中、階段を上って入り口が左右に分かれる建物に入ったところ、そこの左右のお店の客引きが声をかけてきて、うちがいいようちがいいよと、それぞれ話しかけてきた。最初からパンナⅡに決めていたので、右側の人に従い、右側のお店のドアをあける。
店内は、神秘さが溢れるような照明だった。メニューを見ながら、魚介類と肉類との2種類のカレーを頼むことにした。お通しには、胡椒を小麦で練って焼いた感じのクラッカーを出された。それを香辛料や甘辛いソースにつけて口へと運んでいく。パリパリのクラッカーは香ばしく乗せた香辛料にはヒーヒーと辛いものがあった。
ビーフとポテトとベジタブルのミックスされたカレーと、ロブスターのカレー、そしてナン、ご飯、キャベツのカレー煮、豆のスープが出てくる。そして、飲み物にはスイートラッシーという、ヨーグルトっぽいリキュールを注文してみる。
最後に、飲み食いして25.75ドルを割り勘した。食べる量が多かった割に、かなり安そうだ。ご飯はやはりタイ米とあってパサパサめではあったものの、焼くのでなく炊いて作られていたので、水分のある食感だった。全体的に唐辛子辛いのはあるけれど、肉もロブスターもしっかりと味付けされていて美味しかった。全体的に、すごく満足!
サービスで、デザートにマンゴーアイスを出してもらった。非常にサービスがいい。中途半端な時間だったので、店内には俺ら以外のお客さんは1組しかいなかった。ユウキが店員に雑誌に載っていたと話しかけると、店員さんはよく載るんですと答えてくれた。
最後に、お口直しに出された甘めの実で辛さを和ませてから店を後にする。返ってきたお釣りをチップとして挟んで残しておいたため、結局、それぞれで15ドルを払ったことになった。チップが多かったか少なかったかは不明だけれど、俺的に味にも店内の内装にも大満足だった。
17:00にご飯を食べ終えて、アスタープレイス駅まで来た道を戻る。そしてグリーンラインでグランドセントラル駅までアップタウンして、歩いて数分をかけてロックフェラーセンターを目指す。
グランドセントラル駅は、地下鉄の乗り換え駅としても有名なとても大きな駅だ。歴史的な建造物はホテルのよう厳かな内装で、大理石の空間と国旗が冷たく格式のある雰囲気を醸し出し、美しかった。
いきなり目の前に広い空間がみえたため、その規模の大きさに圧倒されながらも、階段に登って写真を撮ってみる。天井には星空が散りばめられているようで、星座が描かれていた。
駅の真ん中は案内所になっているようで、日本人の修学旅行生が何人か来ていて、制服姿の男女が日本語の方言で話をしている。修学旅行でニューヨークなんてなんとも贅沢な!とも思いつつ、僕らはそんなのを尻目に大理石の上をコツコツと歩く。17:30になり、グランドセントラル駅からロックフェラーセンターへと歩いて向かうことにした。結構な距離を歩いたものの、もちろんここ、ニューヨークの通りはSt.の番号とAve.の番号とで碁盤の目のように定義されていたので、一度も迷うことはなかった。ロックフェラーセンターの隣にはラジオシティーという建物があった。まだ今は賑わってはいなかったけれども、ラジオシティのミュージックホールは世界最大のホールらしく、ここも有名な建物のようだった。
ロックフェラーセンターの上の部分、トップオブザロックに入場するためのチケットは20ドルだった。1階から一気に65階までを、エレベーターが釣り上げるのだ。エレベーターは重力に逆らいながら、高速で上へ上へと進んでいく。65階までは、わずか30秒ほどの時間だった。
そこから68階までの間は、テラスをゆっくりとまわりながら、エスカレータであがっていくことができる仕組みだった。分厚いアクリル板の囲いのあるテラスを歩きながら、360度の景色を堪能する。街はウルトラマンの撮影セットのように映って見えた。乾いたコンタクトレンズが視界を曇らせるのを、何度もあくびして目を潤わせながら、視力をかぎりに景色を焼きつけていく。
時折、休憩のためのベンチが設けられていたり、屋内には壁が光るイルミネーションの演出もあったりした。しかし、そんなもんには目もくれずに、ゆっくりゆっくりと360度がつながるようにと写真を撮って歩く。
カメラを落とさないようにストラップを腕に巻きつけながら、そして、アクリル板の15センチの隙間からカメラを外に出しながら撮影をする。写真にすると現実での対比物が切り取られてしまって、遠近感が分かりづらくなってしまうのが残念でならない。
19:00までに68階までの一通りの風景を堪能した後に、ベンチに座って景色を眺めながら、ユウキと恋愛話なんかをしてみる。フェリーで見かけた子が相当タイプだったみたいで、話しかけられずに後悔していたみたいだった。
とても美しい夕焼けにも終わりの時間が近づき、19:30になってやっとこさ、夕陽が完全に沈む瞬間を迎える。日本よりも太陽の昇る時間が長いような気がする。夕陽はハドソン川の境界線へと身を隠していく。半身を沈めてからは、水辺が暗くなるまでに1分としてかからなかった気がした。そして、ユウキにとっては、この瞬間をもってホームステイ先に帰る時刻となってしまった。彼は夕陽が落ちるのまでの時間を粘って、それから帰宅すると宣言していた。彼はトラブルがあっても、一応ホームステイをしていることには変わりない。約束の門限を守り、夕飯を食べに帰らなくてはいけないのだ。
急いで変えるユウキと別れて、俺はもう少し居残ることにした。ユウキに続きを収めてほしいと預かった性能のよいカメラを持って。その後もひとりで2分おきぐらいに写真を撮った。太陽の沈んだあとの、夕焼けが沈みゆく街並み、そして、街に灯りがともりはじめて、夜景へと移り変わっていく様子。もちろん現前の生の景色を堪能しながらも、それらを丹念に、無心で枠へと収めていった。
夜になり、街の様子に変化が見られなくなってきたのを見届けて、俺はただボーっと目の前の風景を眺めながら、近くの椅子に座っていた。ここでは、空に切り離されて宙ぶらりんになったような気分だった。人混みはほどほどに混雑していたけれども、景色を邪魔するほどのものではなかった。少しの間だけ、日本人女性のビジネスウーマンって感じの人の日本語が聞こえてきた。しかし、それ以外は聞こえてくるのは外国語ばかりだ。意味を想起させる日本語ではないからであろうか、雑音にイチイチ気を取られるようなことはなかった。気の散らない、自分だけの空間だった。空から吊るされた透明の球に閉じ込められたような気分だった。そこに流れていたのは、煌々と輝く下界のビルたちをただ見下ろす時間だけだった。
そんなときは、色んなことを思って仕方がなかった。この景色を観て、普通の人はなにを考えるのだろうか。俺が感じるのは、孤独だ。夜景を見て感動するのは、なにに対してなのだろう。俺はそれはエゴなんじゃないかなって、ちょっぴり思ってしまった。それは人間のくだらん誇りなのかもしれない。人類は夜になってもこんなにも明るい、繁栄の街を築きあげたのだ。そして、超高層ビルとよばれる建物を建てて、その屋上にちょこんと座る。その結果、文明の発展によって実現した景色を見下ろして、悦に浸ってしまってるだけなのではないか。たとえ他の人が何かを感傷するからといって、自分も何かに共鳴して、同じことを思った気になったりするものなのであろうか。それは自然に出る本当の自分の感情なのだろうか。目の前に広がる景色は、ただそれとして存在するだけで、俺には特別な心情を見い出させてはくれないような気がした。
ただひとつ、ふとこみあげてきたのは、この世界に貢献してきた祖先に感謝しなくてはいけない、という感情だった。彼らが生み、営んできたこの世界のなかで、俺もこうして今、恩恵に預かり、景色を眺めることができているのだ。こんなに遠く離れた世界にやってこれたのも、さらにこんなに高い建物にのぼっているのも、名もしらない、どこかのだれかのお陰なのだ。その恩恵に感謝しながらも、自分もこの目に広がる世界で生活する人類たちに、ほんのちょぴっとでもプラスに貢献できる人間になりたいなと思った。
空は澄んでいて、まさに夜景を見るにふさわしい、快晴と呼んでも差し支えない顔つきを見せていた。そうだ、さっきからなにか物足りような気がしていたのは、空を見ていて月が見つからなかったんだ。俺はもともと月を見るのは好きな方だ。こんなに高いところでは、月はどんな見え方をするのだろう。やはり間近で大きく見えたりするのかな。ふとそんなことを思って、警備員のおじさんに「Where is the moon?」と尋ねてみることにした。おじさんは俺に聞かれて「確かに無いな」って表情になって、同じく警備員をしている近くのおばさんに声をかけた。おばさんはすぐに、ギャーギャーとした声を張りあげて、おじさんと俺に教えてくれた。「今日は月は見えないよ」、「今日は月は見えないけど、明日になると見えるよ」と。なにそれ、そんな、月って見える日と見えない日があるのかね。俺の英語の聞き間違いだったのかなぁ。いや、でもたしかに今日は月が見えないんだよなぁ。。。それで今、日記を書きながら、今になってやっと気がついた。それは新月だったってことだったんだね。ちょうど月の見えない時期で。
それからまたしばらくの間、変化を見せなくなった夜景を眺めるために、ベンチに戻った。今日は飲み物も食べ物もリュックに残っておらず、なにかを持ってこようとも思ってなかったんだけど、まだなにも食べる気にはなれなかった。そして長い時間なにも飲まずにベンチに体育座りになって、ただただじっと座っていた。
んでまぁ、21:30になって、さすがに十分に堪能したのでホテルに変えるべく腰を上げる。夕方から景色の変化をある程度見れたので、趣きを感じとれたような気がする。
今日は勤労感謝の日で祝日だった。だから、きっとビルの明かりは普段よりも少なかったんだろうな。天気もよかったのもラッキーだった。もう、言うことないっしょ。本心からもう満足して、二度と来なくてもいいぐらいに思えた。みんなはこの景色をだれに見せたいって思うんだろうかな?やっぱり一番大好きな人に見せたいってなるのかな?
この建物からは、スピリチュアルな思考とパワーをもらったような気がする。視界の広さとあわせて、大きな開放感に包まれた。思考はまだ止めどなく溢れ出してくるような気がしてならない。思い足りないような気持ちも持ちつつ、じっくり考えに浸りながらも、今日も地下鉄には乗らずに歩いてYMCAまで帰ることにした。
とりあえず、この高揚感を維持しながら、ぼんやりと色々なことを考えながら歩きたい気分だった。
帰りに、道に迷って日本語で「あっちでもない、こっちでもない」と困っていた女の子が2人いるのに気がついた。交差点の信号待ちで追いついたので、可哀そうに思って、その大学生ぐらいの日本人に声をかけてみる。彼女たちの目的の57St.のホテルは、7番街の57St.にあって、帰り道の途中であった。土地勘のある一面を見せるついでに、送ってあげることにした。彼女たちは津田塾女子大学の生徒で、千葉と東京都大田区の出身だと言っていた。今日は3日間ほど滞在するニューヨークの旅行の初日で、飛行機で到着してホテルに荷物を置いてロックフェラーセンターに上ったところ、帰りに迷子になってしまっていたらしかった。
部屋にたどりついたのは、22:00をまわったころだった。誰もいない部屋に先に入っていると、相方が15分ほどしてから帰ってきた。いつも、なんでいつも同じタイミングなんだろう。聞いてみるに、彼もさっきまで、ロックフェラーに上っていたというのだ。なんてこった、めっちゃいた時間がかぶっていたのに、絶対向こうで逢ってたはずなのに、まったく気づかなかったなんて。。。
そこで、相方と今日感じたことを話しあった。俺は、今夜感じた感覚を話してみることにした。一方で彼は、お気に入りの曲をi-Podで3周して聞きながら、小説の一説を思い出していたんだそうな。そりゃやっぱかっけぇよ、俺にはそんなのまったく頭かすんなかったし!そんな小説とか音楽とかのストックも持っていないし。けど、ひとりになってずっと物思いにふけっていたい気持ちとかは、めっちゃ似てるな。そんなこんなで、しばらく今夜の感想なんかを話して過ごす。
それで、今日は洗濯をしなくちゃならない予定だったので、25セントを作るために、ひとりで買い物をしに再びホテルを発つことにした。ホテルのフロントでは先日の通り、洗濯と乾燥に必要な25セントを両替してはくれないのだろう。
22:30になってもタイムワーナーセンターの地下のホールフーズはまだ営業をしていた。そこで、ポリバケツのような材質でできた大きな容器のトロピカーナのオレンジ味を5.69ドルにて購入する。これは大きなボトルなので、単位あたりの値段が安い計算だ。このオレンジにはパルプという、果肉の繊維のようなものがたくさん入っているものみたいなんだけれど、部屋でちょくちょく飲んでいこうと思う。
購入時にレジでおばさんに、ついでに1ドル札を25セント4枚に替えてくれないかと頼んでみたんだけど、断られてしまった。その後、ホールフーズでの買い物を、もう一順することを心に決めた。シザーサラダを明日の朝のために購入(3.19ドル)することにした。これで9枚の25セントを集めることができた。洗濯1回のために、なんて労力がいることでしょう。
洗濯機をまわしながら、地下の洗濯室に篭もってパソコンを広げて日記を書いていく。時刻はまもなく23:30だ。こんな風に日記を書くためにまとまった時間をとれるのはひさしぶりだ。洗濯機は25セント6枚の、合計1.50ドルだった。近くの洗濯機のところから話しかけられて、おじさんに洗濯機の操作を少し教えてあげた。そのおじさんに去り際に「Good night.」と言われたのが、ちと嬉しかった。
0:30になり、洗濯機から乾燥機へと洗濯物を移していく。乾燥機は10分で終わってしまったので、もう一度まわしておこうと思う。合計で0.50ドル。部屋に戻ったら、半乾きのものはまたスーツケースの上に広げておいて、ジーパンは吊るして干しておかなくちゃならない。ジーパンは洗わなくてもいいんだろうけど、夏場はベタベタするのが嫌なんだよね。半乾きはもっと困るんだけど。
2回目の乾燥で綿100%の小さなパンツたちは大体乾いたので、安心して1:00からゆっくりシャワーを浴びにいった。シャワーの勢いと熱で顔の日焼けがピリピリする。そうして、ドライヤーから身の回りの整理までを済ませて、2:00にベッドに落ち着く。
今日も実に歩き疲れた。でもって少しお腹が痛い。胃の辺りがロックフェラーセンターの帰り辺りから張ってるんだよね。まぁ、平気な範囲ではあるけども。パソコンを開いてると、なんだかんだで2:30になってしまった。今日もベッドメイキングがされていない。ここへ来て2回目だ。休日だからかな?今朝置いた1ドル札を再び回収して、財布にしまうことにする。明日の掃除のおばさんに賭けよう。
明日はテストだ。今週は日本人ばかりのクラスだったから、来週はクラスを変えてもらった方がいいのかな。おやすみなさい。
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