僕が会社に勤めながら、ビルオーナーになった理由
話は学生時代にまでさかのぼる。当時の僕は、内定先のリクルートで知り合った同期の多くが起業していることを知り、自分も会社を登記してみようと思い立った。登記後、同期に相談してまわると、はじめはイベント業がとっつきやすいらしい。しかし普通のイベントを開いてもつまらない。そう思った僕は、少し変わったイベントを開催することにした。
まずは、知り合いの音大生のピアノのイベント。次は学生ダンサーのダンスイベント。また、美大生の絵を扱ったイベントや、東京から遠く離れた沖縄の離島を活性化させるイベントも実施した。一見するとバラバラの内容だが、可能性のある人達の選択肢を増やし、その人達が輝ける環境を提供するという軸を決めていた。
その中でも、最も成功したのは高専生のイベントだった。
地方の高等専門学校の学生達に向け、東京や海外で働く魅力や選択肢を伝えていくといったものだ。可能性がありながらも、地方で働く選択肢がメインの学生達の姿を見て、放っておけない気持ちになったことがきっかけだ。
ただ、会社の業務と並行しつつ、イベントの仕事をやっていたことから、朝から晩まで働いて夜遅くに帰って寝るといった無機質な生活になっていた。
そんな時、社内で新規事業のコンテストがあり、これを契機として、僕は不動産に興味を持ち始めた。
まずは豊洲のタワーマンションを一部屋。家賃が高いといった問題もあったが、友人や同僚とシェアハウスすることでコストダウンするという知識を得ることができた。
また、自らの仕事で活かすために、自分で不動産を売買して勉強したいと思うようになった。
その後は戸建ての不動産広告を扱う部署に移った。今度はその2ヶ月後、新宿に3階建ての4LDKの新築戸建てを購入した。地方の学生やクリエイティブなことを生業としている人達を呼んで、ここでもシェアハウスのようなことをしていた。
こうして、普通に住むのではなくテーマ性をもった住居スペースを構築していくうちに、現在の弦本ビル(当時は松岡ビルという名前だった)を見つけた。
昭和50年代に建てられた5階建てのビルだったのだが、4、5階が畳敷きの部屋だったので、これは今流行りの民泊のような使い方をするなど、アイデア次第でいくらでも面白くなるなと思い、購入を決意した。
購入を決めてからは、最初は自分の身の回りの人達を巻き込んで何かをつくっていけたらいいな、とワクワクしていた。
しかし、コスト面を現実的に見ていくと、支払いは実に月額60万円。これはもしかしたら自己破産の可能性もある。そこですぐに、企画書を作り始めた。地図や建物内の写真を貼り、ランステーションやシェアオフィスなど、アイデアを複数まとめた企画書を作成して、いろんな方に提案してまわった。
しかし、面白いねと言う人は何人もいたものの、借りようとする人は中々出てこない。
数多くの方に会い続け、知人に紹介してもらった人の中に早野君がいた。同世代団体を主宰していて、その活動のベースとなるイベントスペースを考案し、貸してくれる人を探しているという。会ったその日にさっそく意気投合、早野君が部屋を借りてくれることになったので、まずは2階が埋まった。
次に埋まったのは3階だ。ビル購入の翌々日の4月2日に、ビルのお披露目パーティー兼・僕の28歳の誕生日パーティーを開催したのだが、そこにベンチャー起業の投資をしている方が居合わせていた。その後、このビルのことを気に入ってもらえたらしく、その方が世話しているスキャンマンというベンチャー企業がオフィスを探しているということだった。こちらもあっという間に話が進み、3階のスペースに入ってもらった。
そこからは4、5階の居室も借り手がテンポよく決まり、気づいたらビル購入からわずか1週間で満室になっていた。
順調にことが進み、ホッとしたのもつかの間、オーナーの仕事は、借り手を見つけて終わりではない。今度はオーナーとして、近隣住民や地元の方、地主との付き合いが始まった。
神田錦町という情緒ある街に突然多くの若者が入ってきたわけだから、当然最初は白い目で見られる。とらやの羊羹をもって近隣の方に挨拶に行っても、「いらない」と断られた。
しかし、良かったこともあった。一つはビル経営のイロハを教えてくれる人を中心とした多くの方との出会い、悩みを親身になって相談できる人ができたこと。
もう一つはこのビルの以前の持ち主である方が、地元の有力なビルオーナーとビルの管理会社を紹介してくれたことだ。地元の有権者と仲良くなれたことでより活動しやすくなったのは、僕にとって大きな助けだった。
そのあとも、若くしてビルを購入する若者は珍しいということで、いろんな人を紹介してもらう日が続いた。業界紙「週刊ビル経営」に注目され、新聞で取り上げてもらうまでになったのだ。
しかし、浮かれるのはまたしても早かった。次は、なんとビルそのものに問題が出てきてしまった。
昭和50年代に建てられたビルなので、設備を修繕しなくてはいけない箇所が出てきたのだ。消防設備に関連することは消防署から指摘を受けたためなんとか改築し、畳や障子は新しいものに変えるなど、大きなお金を使うことが何度かあった。
ただ、全面的に一から新しくリフォームしようとは考えていなかった。設備は古いし、部屋もそこまで綺麗ではない。しかし、それでいい。その代わりに初期費用を安くし、入居者達に好きなように模様替えをしてもらって、独自性を出してほしかった。
それでも、壁に当たったのは最初の頃だけで、そこから先は順調に物事が進んだとも言える。
いちばんの要因は、2階テナントの当時の店長だった早野君とオーナーの自分が結託できたことだ。本来、オーナーとテナントが仲良くすることはほとんどない。「クーラーが壊れたから取り替えてください」、「家賃を滞納しているから払ってください」など、利害関係でいえばむしろ対立する関係だからだ。
しかし、このビルではそういった利害関係がない。特に早野君とはお互いが自然と助け合い、近い距離で問題を解決しあう関係にあった。
また、双方とも夢のある若者を応援したいといった共通の想いがあったことがうまくいった理由なのではないか、と考えている。
何かの縁で出会い、入居を決めてもらったテナントなので、僕としても知識や人脈をできる限り提供し、微力ながらも全力で協力することを意識した。
年間を通じて意識したのは、ビル全体に一体感を出すことだった。食べる、住む、働くが一体化することを強く意識した。
正直、ビジネス面で考えると民泊などをしたほうが収益率は高い。しかし、オーナー自身がビルに泊まり、入居者と食事などをして交流しないと、シナジーは生まれない。当然、シナジーがなければ、ビルに一体感をもたらすことはできない。もちろんビジネス的な考えも大事だが、ビル全体で一つのことを成し遂げたいと考えるようになったのは大きい。
うまくいくビルオーナーの条件について僕なりの考えを述べるならば、「どんな問題にも柔軟に対応してテナントの意見を尊重することだ」と答える。
テナントとの最初の関係は大なり小なり利害関係で成り立っているかもしれない。しかし、お互いが意見を交換し、尊重していけば、テナントもビルも一体となって同じものを目指せると思う。
例えば、オフィスを借りる前後には業者にリノベーションを任せるのが普通だが、テナントが自分たちでDIYをするといった、普通では考えられない仕組みを受け入れることも必要だ。テナントから出たアイデアを無下に否定せず、斬新でいい、と認めるのだ。
ビルオーナーは大変なことも多いが、そのぶんメリットもたくさんある。
不動産として持っておけば、場所があるので事業をするにも手間が省けるし、パワーをかけなくても貸し出すだけで収入が入ってくる仕組みをつくることができる。
また、自分のビルに立ち寄ることで、そこの人達と食事をしたり、お酒を飲んだりして、交流を深めることができ、そこから多くの出会いも生まれる。うまくいけば、新しいビジネスが生まれることだってあるかもしれない。会社員だからこそ、社外を含めいろんな環境から刺激をもらうのは必要なことなのだ。
かくして1年間で20代の社会人若手や学生が活躍するビルが誕生した。しかし、僕にはまだまだ、チャレンジをしていきたいことがある。
それは、かつて専門性の高い学生を応援してきた以上に、入居者や関係者に貢献していきたいということだ。
弦本ビルの価値は、「建物」自体ではなく、入居者の「人」にある。その価値を築いた早野君や梶君をはじめ、弦本ビルの入居者や関係者に、微力ながら恩返しをしていきたい。
この1年間を中心に、これまで関わってくれたすべての人に感謝したい。
弦本 卓也