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ニューヨーク滞在記⑤マクドナルド、ワールドトレードセンター、自由の女神へ

Aug/27/2008 WED 快晴

睡眠2:15→7:45

目が覚めるとそこは7:45の世界だった。出発予定の8:00が迫っている。うはぁー、急がなくっちゃ。今日は15分で身支度を整えて、昨日と同様に相方と共に部屋を飛び出す。

せっせせっせと59St.駅に早歩きするも、今度は乗る電車を間違えてしまった。本来ならレッドラインに乗らなくちゃいけないのに、今回はブルーラインに乗ってしまった。ホームでは違うラインの乗り場はその方向に矢印で標示されている。でも標示はその方向にあるすぐ近くのホームだけではなく、そこから移動したそのまた先のホームを指している場合もあるようだ。まだ先の乗り場だったのに、気づかず表示されていたすぐ近くの乗り場から、別の電車に乗ってしまったのだ。

そうそう、こっちの地下鉄には日本のような時刻表ってもんが存在していないみたいだ。都心では電車が5分間隔ぐらいで来るからだろうか、だれも電車がいつ来るんだなんてまったく気にかけている様子を見せない。それに、少しぐらい電車が遅れていようとも、むしろ関心がないかのようであった。そのためだろうか、ここの人は大まかな感覚で時間を把握しているようで、時間にルーズのようだ。ここ数日のクラスでの集合状況を見た感じでは、アジア人以外はあまり集合時間を守らないような気がする。特に欧米人は集合時間を少し過ぎたあたりから集合しだす。そんな国民性が時刻表の有無からも推測されるようだった。

あ、昨日の夜に頭が覚醒してて乗り過ごした電車はレッドラインの3番だったみたいだったよ。3番は1番と2番のレッドラインとは違って、もともと59St.駅には止まらないで、ただ通過する電車のようだ。それに気づかずに行き過ぎてしまったらしい。

今日は朝から自信がなかった。確か今年の春に自動車教習で山形に合宿に行ったときにも、こんな感覚に襲われたことがあった。そのときも生活が変わってすぐのことで、実際に車に乗り始めてから2日目ぐらいのときに、食欲がなくなった記憶がある。初めての環境には、少し戸惑う性格があるようだ。初めの初めではすばやく状況に順応する能力があるんだけれど、スランプが来るのも早いのかもしれない。

今日は朝からなにも食べる気がおきなかった。授業ではbe動詞と一般動詞、現在完了で質問をして、それに答える練習をした。教科書や授業自体のレベルは実に易しく簡単だった。文法事項などで扱っている内容は、日本の学校でいうと中学校レベルだ。しかし、いかんせん英語で説明を聞いたり発言したりする方がはるかに俺にとっては難しい。教科書をひとたび離れて先生が話し出すと、初めて聞く生の会話に戸惑いが隠せなくなってしまう。しかし、はじめて知る知識が登場する授業ではなかったので、聞いていたかぎりでは意味不明な部分は少なく、習う単元としては適切のようにも思えた。まずは内容よりも授業自体に慣れないといけない。学んでおくべきことは、英語特有の言いまわしや状況にあわせた自然な受け答えの仕方であろう。先生のジュリーだけでなく他の生徒の言動にまで積極的に耳を傾けて、生の会話そのものを自分のものにしていこうと強く思った。例えば、ただ単に相槌を打つのでも色々な表現がある。Sure、Right、OK、See、uh、That’s it!、Yeapなんていった具合に。他にも何かに違うよって言いたいときには、Nonononononononoなんて流暢に歌うように言ったりするのだ。これは日本語であれば上手に使いこなして、ごく当たり前のように受け答えしてきたものだ。英語では、聞いて理解することはできるけど、自然な会話のなかで自分から自然に返答できるってことは、すごく難しいことなんだなって、あらためて思った。

知ってることでも言葉にするのってやっぱり難しい。間違ってもいいから冗談が言ってみたい。笑わせてみたい。心を通わせてみたい。そのためにはまず、発音をしっかりすらすらと言えるようにならなくちゃいけない。音読してすらすら言えるようにならなきゃいけない。これまでの日本での英語教育では、なんでこのようなことをしてこなかったんだろう。たとえばよく聴いてみると「She’s 」は「シーズ」だし、「won」は「ワン」、「It means」は「イッミーンズ」なんて発音するんだ。ここへきて発音に課題があることがたくさんわかってきた。

昼休みの時間になったので、クラスのみんなの予定を聞いてみた。どこかに行こうと誘ってみたものの、韓国人のジャンミーはデパートだかコンビニだかの店員の仕事に、イタリア人のサラは残りの滞在時間の少ない友達と食事に行くと言って断られてしまった。今日は外国人との午後を過ごせなさそうだ。

相方は昨日からカレンというコロンビア出身の女性と図書室で仲良く過ごしている。カレンはごく最近に結婚して、英語の勉強をしにここに留学に来ているという。相方とは同じ初級クラスのようで、相方は彼女の探し物を手伝ったり、英語力のない彼女のよき話し相手になってあげたりしているらしかった。

そういえば、昨日の夜に相方が調べてたんだけれど、コロンビアはマフィアがはびこっていて治安がとても悪い国らしい。コロンビアは美女の大国だとよく言われるらしいけど、相方の話ではカレンも例外なく美人のようだった。

そんなカレンとは今日、初めて顔を合わせることになった。しかし、今日はカレンと一緒にいた相方を引き剥がしてしまって非常に申し訳なかった。ラウンジで授業が終わってコウとユウキと会ったんだけど、そのときに移動してエレベーターの前に行ったときに、相方がカレンと2人でいるところに出くわしてしまったのだった。3人で「今日はどうすんの?」って話しかけたときに、カレンが遠慮して日本人同士で過ごしなって言ってくれたんだ。これからまた図書室で過ごす予定だったんだろうに。。。2人には本当に、悪いことをしてしまった。

結局それでコウとユウキと相方も含めて、昨日の4人で昼ご飯を食べに行くことになった。場所は見当がつかなかったけれど、アメリカだしマクドナルドでも食べるかってことで、取りあえずあてもなくLSI隣りのバリックSt.を北上していくことになった。マクドナルドはニューヨークなら大体どこにでもあるのだ。予想通り、しばらく歩いたところにMのマークの看板が映った。一行はアメリカへの上陸後初のマクドナルドに入ることを決心した。

店内に入り、レジに並んでみると、メニューはほぼ日本と同じのようだった。しかし、ドリンクを注ぐマシンには、コーラ、ダイエットコークと書かれた横に、ハイシーという毒々しい着色のオレンジジュースが並んでいた。俺はビックマックのセットを注文して、コーラではつまらないということで、そのハイシーという名のオレンジ色の液体を飲むという冒険をしてみることに決めた。

注文したビッグマックの味は、日本とはほとんど変わらない気がした。違いといえばただ、見た目としてキャベツが細かく切られていたってことぐらいかな。価格設定も、ほとんど変わらないような気がした。

食べ終わって表に出ると、救急車が走っていた。考えてみれば、救急車や消防車、パトカーなどの緊急車両が意外と多く見かけられるのはこのニューヨークの特徴の一つなのかもしれない。目の前では事件は見かけないものの、気のせいか心もち、どこかで治安の悪い行為がおこなわれているような気もする。

お腹も心も充分に満たされたところで、一同はすぐ近くにあったスプリングSt.駅の階段を降りて、ブルーラインの地下鉄へと降りた。スプリングSt.駅はキャナルSt.駅よりも1つ北側の駅で、そこからダウンタウンの電車に乗り込む。今日はコウの提案で、センチュリー21と呼ばれる、ブランドや服などが安く売られているショッピングセンターに行くことにした。ダウンタウンに乗って、マンハッタンの南端、ワールドトレードセンター駅を目指す。そこには目的のセンチュリー21と、2001年9月11日に飛行機が突っ込むテロに遭った世界貿易センタービルの跡地なんかがある。

やっとのことで目的のワールドトレードセンター駅に着く。俺とユウキはそれぞれの地図を広げながら、2人並びながら後ろを歩くようになってしまっていた。駅から地上に這い上がって目的のセンチュリー21にふらついているときには、地図も半ばに突き進む2人と、後ろから地図を広げながらついてく2人に別れる構図となってしまった。

先頭を歩く2人は、ひとまず目的地と現在地を確認するために、近くに発見した少し大きめの公園で休むことに決めた。その公園は市庁舎の前に広がるシティーホールパークという公園だった。対する俺とユウキは、団体行動を乱しながらも、韓国人女性のベッピンさん2人に写真を撮ってあげたりしていた。彼女たちは、噴水の前で自分たちの写真を自力で撮ろうと、何度も繰り返しているところであった。最初日本語で話しかけたところ、日本人ではなく韓国人で、2人は観光でここに来ていたようであった。韓国では「ハイ、チーズ」を「キームチ」って言って撮るらしい。

公園のベンチに座ると、「あぁ、やっぱさっきのあれがワールドトレードセンターだったんだ。」と、相方とコウは地図を覗きながら漏らした。俺としてはあまり気を取られずに歩いてきたので、そんな重要な建造物跡地はしっかり見ておきたいと思った。そこで、直でセンチュリー21に向かう2人を尻目に、「もう少しワールドトレードセンターを見たいから」ということで、ユウキと2人で一端別れて別行動をすることにした。そうしてユウキと俺はもう一度、建設中の柵を目指して歩く。

地図で現在地は把握済みだったので、世界貿易センターの跡地を見た後に、すぐ隣にある郵便局に封筒をもらいに立ち寄ることにした。郵便局は大きい施設で、分厚い木製の扉と、象牙色の大理石に囲まれた重厚感のある施設だった。アルミ製の郵便受けが縦横に積み重なっている部屋もいくつかあった。そんな中、ユウキに付き合ってもらって、それぞれ3枚ずつぐらいの封筒を手に取った。それらは郵便会社の規定する大きさの封筒で、窓口の近くの机に置かれていたのだった。これは日本に残した彼女のためだ。早いうちに手紙を出す要領を知っておかないと、手紙が届くのが遅くなってしまう。

それからワールドトレードセンターの跡地を、ぐるっと色々な角度から撮影して、センチュリー21に向かった。ワールドトレードセンターとは、今からちょうど7年前の2001年9月11日に、同時多発テロによって崩壊した、当時アメリカのシンボルだった有名なツインタワーのことだ。今はその跡地は建設中で、完成すれば世界一高いビルとなるといわれるフリーダムタワーという名前の建物を建てているところだった。同じくワールドトレードセンターという名の地下鉄の駅も、同時に改築されるため封鎖中なのだ。悲しみの歴史の実感はあまり感じられなかったけれども、後方にはワールドフィナンシャルセンターがぽつんと哀しそうにそびえ立っていた。

ワールドトレードセンターに沿った通りには、目的地のセンチュリー21が控えていた。白色の看板にあるCentury 21の赤文字が我々を迎え入れる。Century 21は日本では不動産屋さんのイメージだが、ここではブロックの区画1つを平べったく店舗としたような、洋服と人々の人気で賑わうデパートだった。ユウキと一緒に相方とコウを探しながらも、中に入って地下から最上階までの、興味のあるメンズショップなどの売り場を見てまわることにした。

地下1階ではリネンとトラベル用品とガラス、工芸品、そして時計やお土産などが陳列されていた。そして1階と2階では、メンズのジーパンやコートや上着、スーツやネクタイなどが陳列されている。しかし、そこいらの服はサイズが明らかに大きすぎたり太すぎたりするので、身体にあいそうにない。服飾のどのデザインもシンプルすぎるような気もした。ただし、質のよさそうな高級品でも、値段だけは破格に安いというのは噂通りだった。例えば、60%オフのジーパンや定価が800ドルから200ドルにまで割引されているジャケットなんかが普通に売られていた。気に入った柄でサイズが合う上着が見つかれば、一発で即買いしたいものだ。

しかし、サイズが合う服を1着でも探そうというのなら、それはあまりに骨を折る仕事のようだった。結局、デパートの中でも相方とコウに合流することはできず、Century 21を後にすることになってしまった。

Century 21を出てから、しばらく南に歩いていくことにした。南の端に行くと女神が見えるかもしれなかったのだ。しばらく南下をつづけていると、だんだんと鼻をかすめる潮風の香りと肌触りが、海に近付いたことを教えてくれた。

そのとき、ユウキは一店の屋台を発見した。それはプリッゼルと呼ばれるパンを売っているスタンドだった。ユウキはもともとそのプリッゼルも事前に調べていて、それを食べたいと目星をつけていたようだった。そそくさとそのスタンドに駆け寄り、2ドルずつで割り勘して、2人でぱくりとぱくついてみる。うーん、しょっぱい。上にかけられている砂糖に見える白い大きな粒は、見た目に反して砂糖ではなく塩だったのだ。プリッゼルというお菓子は、塩がまぶしてあることを除けば、饅頭をぎゅっと固めた感じの硬いパンの味だった。塩は乗せないほうが自分の口にはあう。うう、口内炎が痛むではないか。

ユウキはその後、他には特に行きたいところはないと言った。俺も検討がなかったので、情報誌の地図を俯瞰して、ここら南端一帯の名所を探してみることにした。そして、ニューヨークの証券取引所とウォール街を通り、そして自由の女神を目指すことに決めた。相方とコウに少し悪い気がしたが、2人の方が行動はしやすい。

行き先の相談もしやすいし、柔軟にフットワーク軽く移動ができた。方向を間違ったときの責任や迷惑が軽くなる分、大胆に行動することができた。

歩いてマンハッタン南端のバッテリーパークという公園を目指した。そこは地下鉄では1、2駅離れたところだったけれども、歩いて行けない距離ではなかった。むしろ地下鉄では楽しめない風景がある分、歩くのが断然、面白い。ユウキも俺も、歩くのが苦ではなかった。目的地という点だけを楽しむよりも、その点まで至る線を辿っていくと、点が線になり、広がりを見せる。

しばし休憩をするためにコンクリートの花壇の縁に腰かける。アメリカでも日本と同様にコンクリートジャングルの中でハトやスズメ、カラスなどといった野鳥が共存している。ハトは日本よりもひとまわりほど身体が大きいけれど、ほとんど変わらないのかな。でもやっぱりなんか外国の鳥は、エキゾチックな雰囲気があるんだね。

15分ほどで辿り着いたバッテリーパークからは、遠くに小さな自由の女神が見えた。本物がどれだけ大きいのかは想像できないけれども、ここからは結構離れているようで、小さな女神が島の前方に立っているようだった。女神に歓声をあげ、心の中で拝みながらも、写真を激写する。

バッテリーパークの園内には野生のリスが遊んでいた。かなり近くでもすばしっこく走り回っていたけど、リスは野生のようだ。そういえば初日にセントラルパークのベンチで萎えていたときに、相方がリスを見つけたって言ってたな。日本人からすれば、身近に野生のリスってのは珍しい環境だと思う。その一方で、野生の猫や犬は見かけない。リスは思ったよりも大きかったような気がした。俺もやっとリスが見れたぜぃ♪

園内には他に、踏むと音の鳴るパネルが置かれていた。地面に3×3で置かれている9マスのパネルだ。踏んで遊んでみるに、音階はドレミではなかった。しばし無心で踏みつづけ、即興の音楽家になった。興味深々で近づいてくる外国人の女の子なんておかまいなしに。

その後は、海沿いをしばらく歩いてフェリー乗り場まで歩いた。自由の女神に近づこうと思ったのだ。スタンドでオレオのアイスを売ってたもんだから、少々高かったけれども2ドルで買って食した。

事前に調べた情報でも、女神の中に入るチケットは枚数が限定されていて、早朝から並んでチケットを買う必要があるとのことだった。今日は急遽ここに来たし、もう時間も遅く、女神を足元から拝む心積もりはしてきていなかったので、乗り場の場所だけをおさえて女神のいる島まで行くフェリーに乗るのは諦めた。

かわりにスタッテンアイランド行きの無料のフェリーがあったので、そこから彼女を眺めることにした。マンハッタンとスタッテンアイランドを結ぶこのオレンジ色のフェリーは、海を渡り島を結ぶための公共の交通機関で、地元民の大事な足となっているようだ。

このルートはガイドブックに紹介されていた、自由の女神を楽しむ方法のひとつだった。2人でぞろぞろと集まりきっていた行列の最後尾に加わり、フェリーに乗り込んだ。そして、最上階のデッキに上って、海を眺めてみることにした。

17:30、発車時間となった。船は汽笛を鳴らして、大きく揺れ始める。さっきまでいた岸辺が、マンハッタンが遠ざかっていく。

そして女神が徐々に近づいて大きくなってくる。

女神の正面を突っ切って、フェリーはスタッテンアイランドへと向かった。

ここまでくるのに、もう20分ぐらい乗ったはずだ。これから向こう岸に行き着いたあとに、また元の岸まで戻らなくてはならないのだ。だんだんと不安が近づいてくる。思ったよりも時間がかかる。異国の地で遅い時間に知らないところに向かうことに焦りが生じる。

女神を過ぎても、向こう岸までの道のりは長かった。フェリーは一向に減速しようとしない。元の岸辺なんてもはや見えなくなってしまっていた。ユウキも帰りの時間を気にしはじめていた。そういえば、昨日もそうだった。ホームステイって大変なんだね。夕飯までに帰らなきゃいけないもんだから、時間も気にしなきゃいけない。じっとしていられないタイプの俺には、それじゃ自由な旅行が本気で楽しめないような気がするけど、でもやっぱ現地の人と直接触れ合えられるのは、ホームステイならではのよさだとも思う。

女神に近づき、そして通り過ぎる瞬間のところまでやってきた。だがしかし、思ったほど近づいてはくれない。仕方がないので、ベタだとは思いつつも、女神と並んで女神のポーズ。

ユウキの話では、彼のホームステイ先では当初に聞いていたホストマザーはおらず、変わりに若いカップルがいたんだそうだ。ホストマザーはおばあさんの看病のために出かけていて、なぜか若いカップルがユウキを迎えたらしかった。その人たちが、ペットの犬が吠えると蹴ったりして、ぞんざいに扱うらしい。朝には犬のフンが絨毯に落ちていて、それが掃除もされないで放置されていたとのこと。彼はそれでもホストマザーが帰ってくるまでの我慢だと、毎日夕飯までに帰っているのだった。ちなみに昨日の夕方のご飯は、お米にチキンがどっさりと乗って、ケチャップがたっぷりの食卓だったそうだ。彼は本当のアメリカを知ったようだ。オイリーでとてもヘルシーとは言えない夕食だったらしい。

そんなこんなでユウキのライトオンでのバイトの話なんかを聞いたりなんかして、フェリーが乗客を向こう岸へと運ぶ30分間を費やした。18:00に目的地のスタッテンアイランドに到着する。で、これから折り返し運転で、もと来たサウスフェリー駅まで戻ることになる。女神を見るにもちょいと一苦労だったかな。ユウキは時間はまだ大丈夫だと言っていた。

フェリーはスタッテンアイランドで折り返すはずのものだったけれども、ガタイのいいお兄さんたちによってロープが張られてしまって、乗客全員が降りるまで次のお客さんたちが乗り込めないように囲いがされてしまった。ユウキと俺はしばらく粘って折り返しの船になるまで乗り続けようと試みたけれども、降りるようにと指示されたため、仕方なく船からスタッテンアイランドの地に降り立って、そっからすぐに再入場することにした。早歩きで船から降車したものの、船の降車口と搭乗口が離れていたうえに、登場口ではすでに搭乗者のためのゲートが閉められていたので、次の船が来るまでに待つ羽目になってしまった。

電光掲示板によると次のフェリーの出航時間は18:30だった。まだ30分も時間が残されている。そこで、2人は搭乗口が開くまで、付近の売店で時間を潰すことにした。俺はその売店で、ミニッツメイトのジュースのグレープフルーツ味とグレープフルーツのルビー味の2本を、合計4.50ドルで買うことにした。グレープフルーツ味はここに来て初めて見つけたミニッツメイトの味だった。

30分後に現れたフェリーの折り返しに、今度こそはと余裕を持ってゲートの前に立っておいて、余裕を持って乗り込む。そして、行きと同様に女神の横を通過して、やっとのことで30分をかけて18:30にマンハッタンに戻ることができた。

長い長い旅行だったぜ、と、降りたフェリーの停留所の近くのサウスフェリー駅から、レッドラインに乗っかった。ユウキはホームステイ先でご飯が用意される時間になったようだった。彼は「帰るのはいつでもいいんだけどね」とは言いながらも、時間を気にしているようだった。

一緒にレッドラインのアップタウンに乗って、ユウキは乗り換えのためにタイムズスクエア駅で降りていった。俺はそのまま乗り続けたレッドラインで59St.駅まで到り着いて、そしてホテルへと帰る。

俺は、夕飯は食べる気がしなかった。取りあえず今日は疲れた。なにか買って帰ろうかとも思ったんだけど、とにかくホテルに戻りたかった。すぐにシャワーを軽く浴びて、相方の帰って来ないうちに何も食べずに床に就いた。まだ時計の針は21:30だった。ホテルのカードキーが使えなくなっていたので、2度もフロントまで往復して、データを書き換えてもらった。

英語で言葉にするって難しいね。間違ってもいいから冗談が言いたい。発音をしっかりしたい。テキストの音読をすらすら読みたい。中学レベルの単語や会話表現がすぐに頭や口に出てこない。英語で話しかけるぐらいなら、いっそのこと黙っていたほうが楽に違いない。しかしそれでは英語は一生話せない。

ユウキは無事に帰れたかなぁ?うーん、おやすみ。

後から相方から聞いた話だと、相方とコウもセンチュリー21に行って、そのあと自由の女神を見に行ったんだそうだ。別行動しなくてもよかったのかなぁ。

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弦本 卓也
1987年、埼玉県生まれ。大学卒業後、大手広告会社「リクルート」にて不動産メディア「スーモ」(SUUMO)の運営に従事。新卒で入社して、スーモのメディアづくりを7年、その後にエンジニア組織の組織づくりを4年行う。 また、リクルート社内の部活動制度にて「大家部」を立ち上げ部長を務める。不動産投資に関する情報交換や物件見学のワークショップなどを行う。 入社2年目に新築一戸建ての広告を取り扱う部署に異動したことをきっかけに、「いい企画を作るためには、まずは自分で経験したい」という想いから個人で新築一戸建てを購入。その翌年には売却分野を担当したことをきっかけに売却も経験。マンションの売買なども行い、11年間で11回の引っ越しを経験。 「新しい住まいや暮らしを自ら探究したい」という気持ちで購入した東京都千代田区の神保町の中古ビル「弦本ビル」は、コワーキングスペース、シェアオフィス、シェアハウス、飲食店が入居する複合ビルとなっており、20代を中心とした若手社会人や学生のやりたいことを実現する場所として注目を集めている。3年間で延べ1万人以上の来場者を記録し、家賃年収1,400万円を達成しながら満室経営を続けている。 お金面とビジョン面の両立を大切にしており、モットーは「一人ひとりの可能性をもっと世の中に」。会社員を続ける傍ら、学生時代に起業した会社とあわせて株式会社を3社創業。うち1社は売却し現在は2社を経営している。他にもエンジェル投資家として若手実業家の支援を手がける一面も。 日経新聞や不動産業界紙、書籍や雑誌、テレビなどでも多数の注目を集めておりセミナー講師なども行う。宅地建物取引士を保有。